書評
2016年1月号掲載
今という時代の誠実な「記憶」
――絲山秋子『薄情』
対象書籍名:『薄情』
対象著者:絲山秋子
対象書籍ISBN:978-4-10-466907-3
大勢で集まったときに交わされる「地元」話は、大抵、東京以外の土地である。
少なくとも私は東京で生まれ育ったにもかかわらず「地元」という意識で語ることができない。東京とは新しさや便利さと引き換えに、普遍的な風景を失い続ける場所だからだ。本書で山井さんが「なんでも消えていく街なのよ」と表現したように。
だから誰かが「地元」について話すとき、私はそこに温度の高さを感じて少し怯むと同時に羨望を抱く。家柄や容姿以上に生まれ持ったものだと思っていて、強い憧れがある。
『薄情』の宇田川静生は東京から群馬の実家に戻ってきた。大雪に見舞われ、閉ざされた町には雪の静けさと高揚と疲労が蔓延している。宇田川は災害と呼べるほどの「あの大雪」に名前がつかないことに引っかかりを覚える。たしかに名前はない、けれど2014年という描写がなくとも「あの大雪」の記憶は私にもある。テレビ越しにも大ごとだと思い、かといって関東が断絶されたことに現実感を持てなかった。本書はそんな「あの大雪」から始まり、名もつかぬ、だけど人の中にわだかまり色濃く残る諸々を描き出す。
宇田川は伯父の神社を継ぐことになっているが、忙しくない時期は嬬恋までキャベツの収穫バイトに出かける。地元に根を張る仕事を選んだにもかかわらず、宇田川自身は「プライベートでは長く続く線を描くことが苦手」である。蜂須賀とも会えば親しいようでいて一定の距離を置いている。
宇田川は蜂須賀を意外にも「下心も目的もないからある意味貴重なんだけどなあ」と思っているが、濃いつながりを求めているわけではない。居心地の悪さに対して「密度が濃い」という表現は的確ではっとした。のちのち明らかになる事情からして、蜂須賀も十分に密度が濃いのだ。
それに対して宇田川は、白というべき場面で黒や灰色を選ぶところがある。無意識ににやにや笑ってしまう癖や、「あーねー」というどっちの意味にも取れる相槌。傍目にはいい加減に映る。けれど実は同意できないことや違和感に対するかれなりの抵抗であり、正直さだと次第に気付く。ホテルでふった女が泣き、ふられた宇田川が爆笑する。めちゃくちゃさはむしろリアリティであり、それがこの小説の強度なのだと思い知る。
そんな宇田川も、「変人工房」にいる鹿谷さんの前では力が抜けている。「変人工房」はどこでもない場所として「なんとなく」ある。けれど正式な名を持たないものが存在し続けることは難しい。工房で語られる不思議な物語のように、記憶はあるのに、共通の名を持たないために消えていくものたち。たしかにあったはずなのに。そして感じた。この小説自体が「あの大雪」のようなものであり、名付けられなかったものと名を失ったものの物語ではないかと。
私は最後まで読めば『薄情』というタイトルが否定なのか肯定なのか分かるだろうと考えていたが、今はかえって簡単に決められない。裏があれば表があり、それらは一体でもある。それはこの小説が伝えようとしている本質でもあるように感じた。
宇田川の長く続かない線を辿りながら、いったいこの物語はどうなるのだろう、と考えていたら、ある瞬間、突然、線がつながる。ページを捲る手を止めて、思わず興奮して「そうだったのか!」と声に出していた。外側であるはずの自分がいつの間にか「地元」で生活を送り、かれらとの交流を日常的に持っていたみたいに。
絲山秋子さんはここ数年、小説の中で意識的に震災以降の世界を書こうとしているように感じる。地震や原発といった直接的な事だけではなく、あの日から少しずつずれていった世界や人間同士の、ごくわずかに感じ取れる違和感ないしは空気感を。そこには本来、名前も正解もない。けれど決めつけたい人々の動きは加速している。
そんな「善悪や常識が高い塀みたいにがっちりと構えていて、それが唯一無二の現実なんですほかに選択肢はないんです、と固定されているような世の中」で引っかかりを覚えながら日々息をしているのが自分だけじゃないことに救いを覚える。本書はそんな読者のために差し出された物語であると同時に、今という時代の誠実な「記憶」だと思った。
(しまもと・りお 作家)