書評
2016年1月号掲載
急転直下のエンディング
――イサク・ディネセン『冬の物語』
対象書籍名:『冬の物語』
対象著者:イサク・ディネセン著/横山貞子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-506981-0
ぼくの中で、あるいは誰にとっても、イサク・ディネセンは二人いる。一人は『アフリカの日々』を書いた暑いディネセンであり、もう一人は『七つのゴシック物語』やこの『冬の物語』の寒いディネセンだ。この二人が一つの人格に収まっていたことが信じがたいのだが、それが可能だったのは風土が人格を作るからと言って説明になるだろうか。
アフリカのディネセンは誠実な記録者、ナイロビ郊外でコーヒーを栽培する農園主である報告者だ。農園はたくさんの人を使うし人の出入りも多いから、それだけで素材は充分、このクロニクルが暑いケニアの涼しい高原でゆっくりと編まれていったのはまちがいない。
それに対して、北方のディネセンは物語の紡ぎ手である。長い暗い夜に挑むように、派手で波瀾に満ちた先の見えないストーリーを繰り出す。実はこちらの方が作家の本来の姿で、アフリカ報告は農園主がたまたま持ち合わせた文学的才能に任せて書いた余技だったのではないかと思わせる。作者と作品の関係は北と南でかくも違う。
人格は風土が作るなどと乱暴なことを言ったのは、ぼくがナイロビ郊外の農園にもデンマークにも行ったことがあって、両方の土地の光や空気や風をよく知っているからだ。『冬の物語』はアフリカでは書けない。幸いなことに作家は経営的な敗北の後で北の生国に帰ってからもまだ執筆のための精力をたっぷり残していた。むしろそれを機に本来の姿に戻った。
それにしても、デンマークの夜はなぜこうまで彼女を(あっ、イサク・ディネセンは男の名だけど、実は女性の作家です)破天荒な展開の激しい短篇に駆り立てたのだろう? つまりそれが風土の力とぼくは言いたいのだが。
道路に喩えれば、気持ちのいい景色の中をゆっくりと進む車が、その景色に酔って次第にスピードを上げてゆくうちに、いきなり急カーブが目前に迫るようなもの。ジェットコースターかと戸惑ううちにまた悠々の旅路、と思う間もなく険しい登り。話の密度がどんどん高まって佳境と思ってページを繰ると、なんとその先にはもう二十行ほどしかない。いったいどうやって話を終えるのだと訝りながら読み進めれば、これが見事に着地するのだ。ジェットコースターは実は元気すぎるミステリー・トレインだった。
いちばん初めにある「少年水夫の話」はまだ単純かもしれない。少年水夫が海の真ん中で索具に脚を絡めたハヤブサを、苦労して帆柱の上まで登って助ける。やがて船は港に入り、少年水夫は少女に出会い、事件があって窮地に立たされるが……民話のような骨格の話が、現代の小説の凝った文体の衣装をまとって、港町の居酒屋の喧噪の中に現れて踊りはじめる。
「女の英雄」は要約してしまえば、一群の人々の命運が一人の女性の貞操に懸かる、という事態の話だ。強権を持つ者に彼女が身を任せれば万事は解決する。つまりこれはモーパッサンの「脂肪の塊」と同じ状況ではないか。しかしこれを扱うにディネセンはずっと前に始まる局外者の視点を用意し、彼を通じて危難の場面を意外にさらりと書いた上で、はるか後になっての友愛に満ちた総括の会話でぜんたいをまとめる。長い時間の経過の真ん中にクライマックスを嵌め込むという巧妙な手法。
まるで金の指輪に宝石を嵌め込むようだ、と書いてこの比喩はそのまま「魚」という話に出てくる海のように青い宝石の指輪と同じだと気付く。これこそ急転直下のエンディングの典型。最後の三行の付記を読むまでは若い王と親友である部下と老いた奴隷の穏やかな午後がどういう意味を持つのかわからない。しかも、その三行をここに引用しても決して未読の読者の興を奪うことにはならない。それくらいの離れ業――「デンマーク王エリク・グリッピングは一二八六年、叛乱した直臣たちによって、フィナロップの納屋で殺害された。伝承や古謡によると、叛乱の首領は武官長スティー・アナセン・ヴィーデ。妻のインゲボーが王に犯されたことへの復讐だった」
なぜ離れ業かと言えば、話の中にインゲボーその人はぜんぜん出てこないのだ。
(いけざわ・なつき 作家)