書評
2016年1月号掲載
文章の渦中にしかない興奮と悦び
――青木淳悟『学校の近くの家』
対象書籍名:『学校の近くの家』
対象著者:青木淳悟
対象書籍ISBN:978-4-10-474104-5
主人公杉田一善の家は学校から徒歩一分足らずの場所にあり、教室の窓から自宅が見える。一九九二年、埼玉県の「S山市」と記される街の小学校が、七編の連作をまとめた本書の舞台となる。これは作者が育った時代、街ともごく近い設定と思われるのだが(ちなみに評者もほぼ同時期にこの「S山市」の隣市で小学生だったのだが)、主人公や登場人物たちへの思い入れや愛着はむしろ周到に排されている。正体不明の語り手は、知らない誰かの日記でも読むように淡々と、しかし過剰なまでに詳細に細部を拾い、文章を編んでいく。同時に当時の社会的地理的な情報分析も加えていく。そしてそれらがどこにも帰結しない予感! は読むほどに高まっていく。
いわゆる自伝的小説の類とは言いがたい。ではなんなのか......という問いを青木淳悟の小説に向けることはいい加減もうやめよう。
この作者独特の緻密さと複雑な広がりが織り込まれた文章がつくりあげるのは、物語でなく、そこで物語が上演される(されていた)舞台の方だ。それは小学生から見た世界、ということになる。焦点をあてられるのは、人物よりもむしろ学校、家、小学生にとっての世界たる「学区内」のことである。授業や席替え、先生のこと。家の間取りや母親の高齢出産、妹の誕生、そして父と息子がかわす〈おちんちんの約束〉のこと。読者は、自らの小学生時代を顧みて、懐かしさを覚えずにはいられない。だがこの作者の筆は小説をそんな懐かしさにとどめておくことはしない。
日曜日の朝早く、テレビから流れてくる「遠くへ行きたい」の曲に合わせて、母親が〈天井に張りつくような裏声〉で歌い出す。一善はそれをひどく怖れ、不安を感じている。多くの郷愁と共感を呼びそうなエピソードだが、彼の不安は単に哀しげな曲調や母親の歌声が呼ぶものではない。どういうことか。彼は〈知らない街を歩いてみたい/どこか遠くへ行きたい〉という歌詞を、「母親の本心」として聞き、母親が蒸発するのではないかという不安を感じている。〈「ここではないどこか遠く」という発想があり、それに憧れる気持ちを知り、さらに誰しもそう考えるものだと理解できるようになったのは、果たしていつのことだったか。〉
自転車に乗れるようになると、乗れなかった時のその乗れなさは忘れてしまうものだが、ここにはそうやって上書きされて忘れてしまう以前の記憶と感覚がある。これはすごいことだと思う。小学生というのはまさにその境に生きている。本文にはないので余計な説明になるが、この歌はこのあと最高音部で「夢はるか/一人旅/愛する人とめぐり逢いたい」と続く(ちなみに九二年当時の歌い手はおそらく益田宏美、後の岩崎宏美だ)。母親がそんな歌を歌い、それが単なる空想と思えない時、子どもの不安はいかほどのものかと思うと胸が詰まる。
この母親の歌のように、主人公の気がかりの多くは、実は学校ではなく学校から見えている「家」に属するものだ。パジャマ姿のままベランダでくつろぐ父の姿がいつクラスメイトの目に触れてもおかしくない。そんな家と学校の「近さ」に起因する他者=クラスメイトたちから「見られる意識」。そこに小学五年生の「自我の芽生え」を読みとることもできるわけだが、そんな当たり前の読み方をしてはいけない。
文章に編み込まれた情報をひとつひとつ読みほぐしていくことこそが本作の、そしてこの作者の小説を読む最大の悦びだ。解きほぐせば、無数の脈が見えてくる。文と文、語と語の重層的な絡み合い。過激なまでの駄洒落の挿入(しかも超下品!)。そして客観的な語りからうかがわれる人々の豊かな内面。それは和歌や古典文学を読み解く快感に似て、ゆっくり読めば読むほど魅力が増幅していくように思う。
時に「文脈」を持たずに世界と対峙しなくてはならない小学生が主人公に置かれたことは、この作者の「文章」を楽しむための最良の仕掛けであるように思える。その楽しみは小説の外には持ち出せない。自転車の乗れなさ、そして乗れるようになる瞬間と同じように、その文章の渦中にしかない興奮と悦びだ。
(たきぐち・ゆうしょう 作家)