書評・エッセイ

2016年2月号掲載

『アメリカ最後の実験』刊行記念特集

音楽とアメリカと謎――多面的な野心作

――宮内悠介『アメリカ最後の実験』

西崎憲

対象書籍名:『アメリカ最後の実験』
対象著者:宮内悠介
対象書籍ISBN:978-4-10-121541-9

 宮内悠介の新作の主題が音楽であると聞いた時、わずかに不安を覚えたことは告白しておくべきだろう。
 音楽を主題にした小説にはいいものが少ない――もちろんそれは個人的な見解であるが、少なからぬ数の読者が賛同してくれるのではないかと思う。
 面白いものになるのが難しい理由は、書き手があまりに主題を愛しすぎるせいである。書き手のその愛はしばしば信仰に近づく。迷いのない信仰に基づく作品が、小説として面白くないのはまあ当然だろう。「ストーンズがおれに生き方を教えてくれた」などの意識で書かれた小説の面白さが限定的であることはかなり明白である。
 音楽小説が興味深いものになるのは、音楽そのものではなく、それに関連するオブセッションを描いた時だろう。そしてほっとしたことに『アメリカ最後の実験』もまたそのような方向で書かれた作品だった。ジャズって素晴らしいな、といったものではなかったのである。
 中心人物は日本人の若いピアノ奏者脩(シュウ)で、脩がアメリカの音楽学校「グレッグ音楽院」の難易度がきわめて高い入学試験を受けるというのが、メインのストーリーである。
 脩が入学試験を受けようと考えたのは、音楽的な野心からではない。脩は母親と自分を棄てるようにしてアメリカに渡った、やはりピアノ奏者である父親に会おうと考えた。父親はグレッグ音楽院で学んだ後、音楽の活動をしていたが、行方知れずになっていて、音楽院を受験すれば父親が自分に目を向けるはずだという思いが動機だった。
 試験は長丁場で、同じ立場のプレイヤーとの交情も読みどころになっている。マフィアのボスの息子で、有りあまる才能を見せる少年ザカリー、スキンヘッドで巨躯だが温厚なマッシモ、暗い思想を持ったヒスパニック系のリロイ。
 そして実技の二次試験の際に試験場で思わぬことが起こる。建物内のミーティングルームで人が殺されるのである。さらにホワイトボードに以下の文字があった。
〈The First Experiment of America〉
 その事件はべつの事件を呼ぶ。アメリカ第二の実験、アメリカ第三の実験が各地で起こる。いずれも殺人で、インターネットにその動画が溢れる。このあたりの気味の悪さはひじょうに魅力的で、予言的な印象を与える。
 ストーリーは入学試験と実験を軸に進む。しかし同時に一貫して漂うのは音楽論的なアトモスフィアである。音楽とは何か、あるいは音楽を認識する意識とは何か、という問題に関する考察が処々に現れ、それらは作品に現代文学的なニュアンスを加味している。また謎があるという点で、この長篇は哲学的なミステリーとも形容できる。第三章の章題「虚無への供物」でも分かるように。
 そして本作にはもうひとつ大きなモティーフがある。北アメリカである。
 伝記的なことに触れるのは少しばかり躊躇われるが、十二歳の時まで著者はアメリカ在住だったらしく、かの国にたいする複雑な思いが見え隠れしているようでもある。
 そして本書を読んでいるあいだ、わたしはわたし自身の「アメリカ最初の実験」を思い浮かべていた。
 北アメリカに移住した者たちはインディアンたちをほぼ壊滅状態に追いこんだわけであるが、さすがに寝覚めが悪かったのか、その行いの正当性を証するものを欲した。それが「明白なる運命(マニフェスト・デスティニー)」というモットーだった。つまりインディアンを駆逐するのはそれが運命だからだという主張で、平たく言えば居直りである。史上これほど論理性のないモットーも珍しいかもしれない。そのあたりの経緯はわたしには実験に見える。人間精神に関する。
 脩の父親が使っていたシンセサイザー「パンドラ」の存在は興味深い。パンドラはピアノでは出せないブルースの音程「ブルーノート」を、トーンホイールなどの操作なしで発音することができる。鍵盤情報をパンドラ自身がリアルタイムで判断して、第三音を微細に補正するのである。もちろん脩の演奏するパンドラを実際に聴くことはできないが、かれの弾いた「イッツ・ア・スモールワールド」は、音程面ではきわめて野蛮で官能的だったはずである。
 宮内悠介が音楽的異物を描くにあたって技術や音色ではなく音程に注目したことはおそらく妥当であろう。何より音程こそが音楽における貨幣であり言語なのだ。

 (にしざき・けん 作家、翻訳家、音楽家)

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