インタビュー

2016年3月号掲載

岡潔/森田真生編『数学する人生』刊行記念

父、岡潔の思い出

聞き手 森田真生

松原さおり

岡潔の次女で、貴重な資料を保存し、次世代に希代の数学者の言葉をつなげてきた松原さおりさんに、本書の編纂をつとめた独立研究者、森田真生氏が聞く――。

対象書籍名:『数学する人生』
対象著者:岡潔/森田真生編
対象書籍ISBN:978-4-10-101251-3

――岡潔の選集『数学する人生』を刊行するにあたり、さおりさん、そしてお兄様の岡煕哉(ひろや)さんには、多方面からご助言、ご指導をいただきました。お話していると、さおりさんの全身に、岡潔の言葉と思想が息づいているのを感じます。幼少時代からずっと、岡先生のそばにいらしたからこそだと思うのですが、子どもの頃、お父様はどんな方でしたか。

 私は父が四十のときに生まれました。物心ついた頃はちょうど研究が大変なときでしたから、父は家にいて、いつも机に向かっていたと思います。

 兄と姉が学校に行き、私は両親と家に残るのですが、父は座敷でガラス戸に向かって机を置いて、正座姿を崩さず、寒い部屋で、傍らの火鉢に手をかざしながら音もなしに勉強していました。子どもながらに空気がキッと緊張しているのがわかりますから、私は座敷には入らず、次の間から後ろ姿をずっと見ています。すると時々、一休みするときがあって、すっと立ち上がって、いつものように「おりちゅん」って言いながら、私の頭を撫でて通るのです。ニコーっととろけそうな顔をして、頭を撫でてくれる。

 母はその頃、胃が痛いと言ってしょっちゅう寝ていました。だから私は大概、一人で遊んでいたのですが、おしっこをしたいと訴えると、母が「おとうちゃん、さおりをおしっこさせてくださいな」と言うのです。

 そうすると父がやってきて、私を抱いて縁側に連れて行ってくれる。すぐそこにトイレがあるのに、縁側から庭の方を向いて「はい、ちーこっこっこっ」って言ってさせてくれる。

 そのとき穿いていた赤いレギンスの足首に、七つほど円錐形の紅色のボタンがついていて、それが夕陽にあたってキラキラ光るのがきれいで、強く印象に残っています。

――美しい情景ですね。数学について、お父様から何かを教わった記憶はありますか。

 十歳のとき、和歌山から奈良に越してきて、奈良女子大学附属小学校の四年に転入したのですが、このときちょうど算数で、単位の換算を習いました。私はこれがどうしても苦手で、何度やっても、どっちを大きくして、どっちを小さくしたらいいかわからない。実感がもてなかったからでしょうか。

 それで、随分悪い点を取ったらしいのです。すると、父が夏休み前に呼び出されまして、「お嬢さんはちょっと算数が遅れていらっしゃるようだから、夏休みに見てあげてくれませんか」と言われてしまった。

 ところが、いま振り返っても父が何をどう見てくれたか覚えていません。ただ一度、二人で縁側で算数の本を挟んでワハハって大笑いして終わり。それ以後は何もなしです。

――岡先生がエッセイの中で、さおりさんが算数をされる様子を「鞍上人なく鞍下馬なし」と評されています。「間違いやすいから間違うのではなく、間違えたいから間違うのである」「生命力は表へ出ようがないから、裏へ出たのであろう」と。縁側で笑うお二人の姿が目の前に浮かぶようです。計算ができるかどうかよりも、さおりさんの中の溌溂とした生命の動きに、岡先生も嬉しくなられたのでしょう。

 大きくなってから父に「お前が、数学ができないわけがないじゃないか」と言われたことがあります。きっとあのときの算数は、私にとって本当の「数学」とはみなせないものだったのでしょう。私の名誉のためにも、そう思うことにしています(笑)。でもまあ、おかげで数学はずっと嫌いでした。勉強もしませんでしたし。

――さおりさんが子どもの頃、先生は研究の大きな山場を迎えていらして、精神の緊張は大変なものだったと思います。その緊張がふとした瞬間に解けると、誰よりも優しい笑顔を見せたり、ワハハと一緒に笑ってくれたりする。恐ろしいまでの集中力と、解放的な優しさと、そのコントラストが、いかにも岡先生らしいですね。

 とにかく、集中しているときは、研究以外のことはなにも無くなってしまうのです。

 これも私が十歳の頃ですが、あるとき父が考え事をしながら向こうから歩いてくるので、ちょっといたずらをしてやろうと、目の前に行って、仰々しくお辞儀をしてみたことがあります。すると父は、えも言われぬ優しい笑顔で、びっくりするほど丁寧にお辞儀を返して、そのまままっすぐ歩いて行きました。いくら集中しているとはいえ、娘と認識してもらえなかったのですから、このときはさすがに戸惑いました。

 いま思えば父はそのとき、理屈も言葉も何もない「情」だけの世界にいたのです。だからあんなになんともいえない笑顔だったのでしょう。

――岡先生は「情」や「情緒」という言葉をとても大切にされています。さおりさんから見て「情だけの世界にいた」というのはどういうことか、詳しくご説明いただけますか。

 私は父の数学はわかりませんが、父の著した書物や講義録を通して、あの頃の父がどういう世界にいたのか、理屈の上だけでは、少しずつわかるようになってきました。

 父は、数学を研究しているときには、まだ内容のはっきりしない「x」という問題に、ただひたすら関心を集め続けるのだと言っています。一度「x」に向かい始めると、休むことなく、とにかくずっとそこに心を置き続ける。何日も寝ないのです。けれど後年講義録の中で言っています。「問題『x』を、長い時は七年も追い続けているが、本当は問題を『x』と定めた時点でその問題は情的には解けているのだ。あとは知や意の道具を使って表現するだけだ」と。だから問題「x」と共に情の世界にいて表現する道具を探しているのでしょう。

――「知や意は、情という水に立つ波のようなもの」だと、岡先生は京都産業大学の講義の中でもおっしゃってますね。

 そうですね。京都産業大学の講義は昭和四十四年に始まりましたが、もともとは大学院新設に伴って、数学を教えてほしいという総長からの依頼でした。ところが、父の希望で学部生向けの教養科目を担当することになった。「私に数学を教えてほしいという学生が出てくるまでは、日本民族をテーマに講義させてくれ」と。それほど「日本の国」が気にかかっていたのです。結局、この講義が父の亡くなる昭和五十三年まで、九年続きました。

――さおりさんは定期的に勉強会を開いて、このときの講義テープを繰り返し何度も聴かれています。

 最初は難しいので、手をつけないつもりでいました。ところが、聴いているうちにわかってくることもあり、わかってくると聞こえなかった言葉も聞こえてくる。聞こえてくると間違いも見えてくる。それで、父の言葉を正しく記録しておかなければと思うようになりました。以来、講義の文字起こし原稿の校正作業を二十年以上続けています。やるほどに新しい個所が見つかって、いつまでも終りそうにありません。

――この講義と並行して、「春雨の曲」の執筆もされています。

「春雨の曲」は、父が最も力を注いだ作品です。数学の研究に没頭していたときと同じように、晩年はこの作品の執筆に没入していました。第八稿まで改稿を重ねましたが、未完に終りました。

 講義もそうですが、この書はもっと難解です。いま読まれると誤解されることもあるだろうと思います。それでも、二百年後か三百年後かに、理解される日が来ると信じています。それまで、きちんとこの作品を残しておきたいと思います。

 近くで生きてきて一つ言えることは、父は、本当のこと、確信していることしか口にしないということです。いつどんな場合でもそうでした。

 だから、岡潔の言っていることは、全部本当だと思っているのです。「春雨の曲」にも、講義録にも、わからないところはたくさんありますが、わからないのは私が幼な児のように無垢じゃないから。それでも、ここに書かれていることはすべて真実だと思って読んでいます。私が人としてもっと成長した将来、これは常識として受け止めているでしょう。

――今回の選集では、「最終講義」の講義録はもちろんですが、「情緒」をめぐる代表的なエッセイや貴重な写真なども収録しています。「岡潔」を今まで知らなかった読者にとっても、思想と人物に近づくきっかけの一冊になればと願っているのですが、そうした新しい時代の読者に、さおりさんとしては、「岡潔」のどういうところを一番知ってもらいたいですか。

 父は、「人を先にして自分を後にせよ」という家訓のもとに育てられました。私もこの教えをずっと貫こうと思っています。父の思想にはいろいろな側面がありますが、根本は、「自分を後にする」ということだと思います。つまり自我を抑えて真我になる。そうすると自他の区別がなくなる。自分も他人(ひと)も自然も同じ心の中の一つの個になる。だから父は、びっくりするほど心が澄み切っていました。人のことを構わず、強い物言いをするときもありましたが、それは他人だと思っていないから。

 とにかく、自我をのさばらせないこと。子どもを育てるときには特にそうですが、これがすべてに通じる基本だと思うのです。

――「人は本当は不死である」というお言葉もありますね(表紙筆蹟)。「自分」の本体は、生滅する肉体の中にはないのだと。この信念を、ご生涯は体現しているようにも感じます。

 父は私たちによくこう言いました。「何かやりたいこと、成したいことがあったら、一生それを思い続けなさい。一生思い続けて駄目だったら、二生目も、三生目も思い続けなさい。そうすれば、やがて実る」。

 岡潔に関してとにかくびっくりするのは、普通の人には見えないところまで、ものが見えたということです。父の前に座って何も口にしなくても、私が何を考えているか、見通していたでしょう。

 表面に出てきた事物を見て、出るに至る心の軌跡を見通してしまうのです。世間的、物質的なことにはとらわれず、心を綺麗にして、真摯に自我を張らずにやっていると、段々心の目がよく見えてくるのでしょう。

 こういうことができたのは、父の人間が古いからなのだと私は思っています。何生も生きてきたその「生」の数が多いのでしょう。積み重ねてきた経験がたくさんあるから、ずっと先の方まで見通すことができた。そういう意味で、父は古い人間で、誰よりも心優しく、信頼できる人でした。

 (まつばら・さおり 岡潔次女)

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