書評

2016年3月号掲載

『母の母、その彼方に』刊行記念特集

王の帰還

――四方田犬彦『母の母、その彼方に』

石田千

対象書籍名:『母の母、その彼方に』
対象著者:四方田犬彦
対象書籍ISBN:978-4-10-367108-4

 二〇〇一年の秋、四方田犬彦さんは不思議な問い合わせを受ける。
 大正期の婦人運動の資料にあらわれる四方田柳子という女性に、こころあたりはありませんか。聞いたことのない名まえだった。返事をすると、また質問がくる。四方田柳子の住所は、大阪府下箕面(みのお)村です。ここは、あなたの出身地ではありませんか。箕面は、母方の実家があり、幼少の一時期を過ごした。祖父母はすでに他界している。四方田さんは、思いきって、母昌子さんにたずねる。

 ......すると母親はしばらく黙った後で、いった。
 柳子というのは、わたしの祖父が最初に結婚した女性だった。

 祖父四方田保は、明治十三年に島根県雑賀(さいか)の武家に生まれた。苦学のすえ、京都帝国大学を卒業すると、弁護士となり、大阪堂島に事務所をかまえる。刑事事件を専門とし、数々の難しい裁判を担当した。自他ともに認める人権派弁護士として、庶民から政財人まで広く信頼を寄せられた。その祖父が、大学卒業と間を置かず妻とした女性が、柳子だった。
 保と柳子が篤く信仰した本門佛立宗の菩提寺には、過去帳とともに、わずかながら夫妻についての資料が残されていた。
 柳子は岡山県津山の庄屋の娘で、十三歳で進学のために上京し、女子高等師範学校の附属高等女学校から日本女子大学校に進学した。つぎに母校の資料にあたり、おなじ学年に平塚明(はる)(のちのらいてう)がいたことを確かめた。
 柳子は、保と結婚し、五人の子どもを出産する。学生時代に学んだ家政学と児童教育を生かし、婦人雑誌への寄稿、新しい形の婦人用コートの考案、さらに幼稚園の経営へと活躍の場をひろげる矢先、四十四歳の若さで亡くなっていた。
 当時の箕面村は、大阪神戸のモダニズムの実験地として、実業家小林一三により開発された。保は、ここに家族のために四千三百坪の土地を求め、その広大な森をそのまま庭として、家を建てた。家政いっさいをまかせていた保は、家と社交の維持、三人の息子の養育のために、再婚を決意する。そして、著者の祖母美恵と、夫婦となった。
 広大な邸宅は、はじめての女の子の誕生に際して西洋式に改築された。けれど、法事のときにしか入れない仏間や、子どもの立入りの許されない離れは、以前のまま残されていたという。
 晴れ着の詰まったたんすの引き出し、毛皮のぬくもり、ダイヤモンドの指輪の箱、そして仏壇のおく深く。四方田の家の女性たちは、やさしいくちびるをむすび、そっと秘密をしまった。
 著者は、十年をかけて文献をさがし、親類知人にインタビューをつづけられた。さらに、母昌子さんも、みずからの母である美恵さんの足跡をたどられた。そして、よき妻よき母として、来客のもてなしから奉公に来た少女の嫁入りまでをとりしきった美恵さんが、生涯胸にとどめた秘密を知る。
 大阪の上流階級の三代にわたる生活の記録であり、柳子とらいてうの接点については近代女性史の重要な資料であり、法曹界に名をのこす四方田保の正確な評伝となった『母の母、その彼方に』は、四方田少年が王として駆けまわった邸宅の森のごとく、読むものを魅了し招き入れる。
 セピア色の写真にうつるひとびとは、それぞれの務めに邁進し、悲しみにあるひとの気もちをひたむきにくみとろうと生きた。典雅かつ清々しく語られる、甘やかな追憶。ことに、保の臨終の場面は、神々しい光に満ち、くりかえし読み、まぶたを閉じた。
 四方田柳子と出会い、一族と出会いなおした。そして、じぶんが受け継いだものはなにか。著者は自問なさっている。
 わけへだてなく、まっさらな目でひとに相対する態度は、祖父保の仕事ぶりをかさねた。芸術と人生を楽しむ好奇心と美食ごのみは、祖母美恵に授けられた。戦後の日本に押し寄せた海外の映画、音楽、文学には、母昌子さんの青春の財産として出会っている。さらにいえば、箕面の家に、庭に、子どもたちの教育に、亡き柳子の残像、まなざしをしんしんと感じた。肩書にとらわれない広く深い知の森こそ、四方田家の真の資産と思う。
 かたちあるものは消える。けれど不思議なことに、ことだまは、かならず、もっともよい継承者を見つける。
 保の死により、四方田家は邸宅を手ばなしたものの、広大な森は、国定公園として残されているという。
 ことだまに呼ばれ、王は森に帰る。

 (いしだ・せん 作家)

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