書評

2016年4月号掲載

『暗幕のゲルニカ』刊行記念特集

ピカソをめぐる壮大な美術ドラマ

――原田マハ『暗幕のゲルニカ』

大森望

対象書籍名:『暗幕のゲルニカ』
対象著者:原田マハ
対象書籍ISBN:978-4-10-125962-8

 絵画ミステリーの新機軸と高く評価され、二〇一二年の第25回山本周五郎賞を受賞した『楽園のカンヴァス』。その続編というか、姉妹編にあたる長編が登場した。その名も『暗幕のゲルニカ』。アンリ・ルソーの〈夢〉が焦点だった前作に対し、今回の核はパブロ・ピカソの名画〈ゲルニカ〉。『楽園のカンヴァス』では、若き日のピカソが脇役のひとりとして重要な役割を果たしたが、本書では壮年のピカソが舞台の中央でスポットライトを浴びる。
 物語は、一九三七年四月二十九日、グランゾーギュスタン通りにあるピカソのアトリエ兼住居で幕を開ける。視点人物は、ピカソの若い愛人で、〈泣く女〉など多くの名画のモデルをつとめたことでも知られる写真家のドラ・マール。のちに〈ゲルニカ〉制作過程の写真を撮影し、後世に貴重な記録を残す彼女の目から、〈ゲルニカ〉誕生のドラマとその後の数奇な運命が描かれてゆく。そのタッチは細やかで、ピカソの人となりや息づかいをありありと伝える。

 ピカソが絵を描き出す瞬間は、いつも唐突だった。雑談したり、くだらない冗談を言ったりしたあとに、モデルをほんの数秒間みつめて、さらさらとコンテを、あるいは鉛筆を動かし始める。......気がつくと、世にも不思議な絵ができ上がっている。どこからどう見ても写実的な像ではない、けれどこれ以上ないほどにモデルの特徴を瞬時にとらえ、デフォルメした造形。目をそむけたくなるほど醜くもあり、天上の美しさをも兼ね備えた人物像。

 ピカソは、内戦のさなかにあるスペイン共和国政府の依頼を受け、この年の五月に開幕するパリ万国博覧会のスペイン館のために、壁を埋めつくすほど巨大な新作を描くことになっていた。アトリエに届けられたキャンバスは、約三五〇センチ×七八〇センチ。何を描くべきか思い悩むピカソだが、その朝の新聞がすべてを変える。「ゲルニカ 空爆される/スペイン内戦始まって以来 もっとも悲惨な爆撃――」
 そこから、物語は二〇〇一年九月十一日のニューヨークに飛ぶ。二一世紀側の主人公は、日本出身のピカソ研究者、瑤子。ニューヨーク大学で美術史修士、コロンビア大学で美術史博士号を取得し、三十五歳でニューヨーク近代美術館(MoMA)に採用され花形部門である絵画・彫刻部門でアジア人初のキュレーターとなった(前作の主役のひとり、ティム・ブラウンも、瑤子の上司として登場する)。愛する夫、イーサンはアート・コンサルタント。だが、幸福な結婚生活は、ワールド・トレード・センターを襲った二機の旅客機により、とつぜん断ち切られる......。
 ゲルニカ空爆と9・11テロ、二つの大きな悲劇が対置され、ピカソの〈ゲルニカ〉が第二次大戦とイラク戦争をつなぐ。題名の"暗幕のゲルニカ"とは、ニューヨークの国連本部、国連安全保障理事会の入口に飾られている〈ゲルニカ〉のタペストリーのこと。しかし、二〇〇三年二月、コリン・パウエル米国務長官がイラク空爆を示唆する演説をそこで行った際、くだんの〈ゲルニカ〉は、なぜか青いカーテンと国旗で隠されていた。
 この史実を下敷きに、原田マハは空想の翼を広げ、大胆不敵な物語を紡ぐ。実在の人物が実名で登場する二〇世紀パートと違って、二一世紀パートでは、米国大統領や国務長官も架空の名前に置き換えられ、小説は虚実皮膜の間を縫うように進んでゆく。後半の焦点は、瑤子が企画する「ピカソの戦争」展と〈ゲルニカ〉をめぐる策謀。物語はクライマックスに向かってどんどん加速し、『楽園のカンヴァス』をも凌ぐ壮大な美術ドラマが展開する。驚愕のラストまで目が離せない。

 (おおもり・のぞみ 書評家)

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