書評

2016年4月号掲載

「わたしたち」の影

――ジュリー・オオツカ『屋根裏の仏さま』(新潮クレスト・ブックス)

朝吹真理子

対象書籍名:『屋根裏の仏さま』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ジュリー・オオツカ著/岩本正恵・小竹由美子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590125-7

 わたしたちは海を渡る。何度も継ぎを当て染め直したぼろぼろの着物すがたで、船のなかにいる。わたしたちは写真しかみたことのない男と結婚をする。好きになれるかどうか、波止場にいる人が写真の人だとわかるのかも曖昧なまま、初夜のための白い絹衣をたずさえて、考える。わたしたちはアメリカに向かっている。乗船しているわたしたちの境遇はまるで違う。出身も、年齢も、まだ誰とも肌を重ねたことのない娘もいれば夫を置いて船に乗り込んでいる女性もいる。わたしたちは嘔気をこらえる。甲板から、黒く滑らかな鯨の脇腹が海面に浮かぶ一瞬をみる。「仏さまの目をのぞきこんだようだったわ」とわたしたちの誰かが話す。ほとんどのわたしたちは、貧乏神から逃れるように船に乗ったが、アメリカの畑にまで貧乏はぴたりとついてくる。

 二十世紀初頭にアメリカに渡った「写真花嫁」の声が、淡々と書かれている。この物語には明確な「わたし」は不在で、すべてが「わたしたち」のことになっている。それが心地良くて、かえって哀しい。翻訳だったことを忘れ、書かれた文字であることも忘れかけて、気づけば「わたしたち」の声をそのまま自分の身体にとりこみたくなって、音読をはじめていた。くちびるから「わたしたち」の声がのぼる。「写真花嫁」という歴史としてしか知らなかったすがたが、自分の身体のなかを通り過ぎてゆく。
 着いたばかりの夜、わたしたちはそれぞれの男に奪われる。リンゴ農園の干し草を寝床にするわたしたちが空をみる。牽牛星と織姫星が、ふるさとの空とおなじようにみえる。緯度が同じだからだと、なったばかりの夫が言う。わたしたちは、生け花も正座も得意だが、それはここでは何の役にも立たないのだとすぐに知る。英語と言えばABCくらいしか知らないまま、わたしたちは暮らし始める。はじめに覚えた言葉は「水」。その単語を知らないと畑でたちどころに死んでしまうからだった。わたしたちは、女中としても働き始める。オートミールを焦がしたり、ご夫人の白髪を彼女に気づかれぬ素早さで抜いたり、夫がありながらご主人と恋に落ちたりする。
 個人の輪郭ははっきりしない影のようなのに、影だけをみているほうが「わたしたち」の実体を感じられる。事実しか書かれない。美しい言葉によって書かれてある。だから余計に苦しく、むごい。たしかに生きていた、誰かの感情と吐息が始終きこえる。
 若かったわたしたちも、人の親になっている。かつて教えた日本語を、子たちは成長するにつれて忘れてゆく。そして、久しく震わせないうちに、わたしたちもまたいくつもの言葉を忘れてしまう。母語さえ忘れかけていたのに、戦争が始まると、わたしたちは、集団移動を迫られる。
〈わたしたちは自分で収穫することのできない作物を詰めるための木箱を、釘を打って作った。わたしたちは自分たちが出発したあとでなくては熟れないブドウの摘芽(てきが)をやった。土を返して、わたしたちがもういなくなっている晩夏に成長するトマトの苗を植えた〉
 すでに退去が命じられ、畑から離れないといけないとわかっていても、日々の労働をつづける、わたしたち。自分たちのいない未来の時間にむかって手を動かす。未来を祈るような手にみえるが、それは未来を考えないように動かすしかない手で、考えないことでしか生きられなくなるむごさが、強烈だった。

 (あさぶき・まりこ 作家)

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