書評

2016年4月号掲載

超革新的、マタニティーブルー漫画!

――はるな檸檬『れもん、うむもん! ――そして、ママになる――』

東村アキコ

対象書籍名:『れもん、うむもん! ――そして、ママになる――』
対象著者:はるな檸檬
対象書籍ISBN:978-4-10-336512-9

 漫画家になる前、私は地元宮崎の絵画教室でアルバイトをしていたのですが、はるな檸檬さんはその時の教え子の一人なんです。彼女は当時高校生で、その後、大学を卒業してすぐに上京してきたので、私の漫画アシスタントをやってもらいました。当時私はちょうど息子を出産した頃で、はるなさんともう一人のアシスタントさんには毎日、息子の面倒をみてもらいました。二人の助けがあって、ようやく漫画が描ける状態で......十五年近くの長い付き合いになりますが、妹のようであり、家族のような存在です。
 そんなはるなさんが妊娠したと聞いた時、「えー! 大丈夫なの!?」というのが率直な感想でした。タフで大雑把で、雑菌なんて気にしない性格な上、アシスタントさんたちが子育てまで手伝ってくれる環境にあった私でさえ、息子がまだ乳児だったある日、自宅の玄関で、「二人目なんて絶対産まねーーー!」と叫び、一人で号泣しながら壁を蹴りまくったことがありました。いま振り返ると、充分な睡眠時間がとれずノイローゼ気味だったのだと思いますが、その後も子育て中によく頭をよぎる、私にとってはトラウマのような出来事でした。
 なので、A型で真面目で繊細で、健康だけど体の線も細くて、有機的なものが苦手(例えば生花より造花の方が好き)で潔癖で――いわゆる"肝っ玉母さん"とは正反対の性格のはるなさんが、無機的なものと一番遠いところに身を投じる闘いに耐えていけるのか心配でした。案の定、「奇跡的に大丈夫でした!」なんてことにはならず、妊娠・出産・育児のなかで、多くのママたちがぶち当たる壁(はるなさんの場合、つわり、妊娠糖尿病、逆子による帝王切開、手術後の体の痛み、母乳が出ない、眠れない、実母との大喧嘩......などなど)にちゃんとぶち当たったわけですが、それらを一つ一つ乗り越えていった過程での自身の心情を、端折ることなく丁寧かつ客観的に描いているのが、この漫画の素晴らしいところです。漫画の線がシンプルで淡々とした画風のせいか、愚痴っぽくなっていないのも魅力的で。とにかく、リアリティーが抜群なんです。本人に聞いたところ、日記をつけたりメモをとったりはしていなかったそうで、驚かされました。
 ある種のドキュメンタリー漫画と言えるのですが、妊娠や育児で体験した想定外の辛さ――肉体的なものも精神的なものも――を、隠さずはっきりと描いているのも、非常に革新的だと思いました。「妊娠や出産は幸せなこと」だから、「どんなに大変なことがあっても我慢できる」という考えが世の中にはまだ根強くあるので、ママたちは「しんどさ」や「命を預かることの不安や孤独」をなかなか表立って言うことができません。私がよく考えるのは、合唱で目立つのは高音パートだけれど、そこには確実に低音があるのと同じで、「幸せ」という感情も、多重構造になっているということです。「無事に赤ちゃんが生まれた幸せ」だって、100%ハッピーなことだけであるはずないのに、「贅沢な悩み」と思われてしまう恐れもあるから、ますます「不安や孤独」は言い出せないのかもしれません。
 そんな、真面目で頑張り屋の日本人女性たちにとって、「シアワセだけじゃ産めない」というはるなさんのブルーな本音は、大きな共感として響くのではないでしょうか。まさに、育児漫画業界初の"マタニティーブルー漫画"で、「辛い」と言えないママたちにとって、ネットに溢れる匿名の書き込みや真偽の分からない情報を見るより、『れもん、うむもん!』を読んだ方が絶対、心が救われると思います。『ママはテンパリスト』という、息子の可笑しな言動を笑い飛ばした私のギャグ漫画なんて、ただの息抜きにしかなりませんから(笑)。
 ハッピーなことばかりが描かれているわけではないので、男性はもちろん、子どもを持たない人や子どもを可愛いと思えない人が読んでも、何かしら感じてもらえるのではないかとも思います。妊婦もママも、男も女も、全員に読んで欲しい――そんな一冊です。

 (ひがしむら・あきこ 漫画家)

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