書評
2016年5月号掲載
勇気の書
――エトガル・ケレット『あの素晴らしき七年』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『あの素晴らしき七年』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:エトガル・ケレット著/秋元孝文訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590126-4
エトガル・ケレットを知ったのは小説からではなく、その人からだった。2014年の東京国際文芸フェスに招かれていたケレットのキュートな人柄(そのフェスには私も参加させてもらっていて、楽屋が同じだった)、そして彼のお話のとんでもない面白さに、いっぺんでファンになってしまったのだ。そのときはまだ、ケレットの翻訳は日本で発売されておらず、のちに彼の短編集『突然ノックの音が』が発売されたと知るや速攻で手に入れた(ある小説家に対して、こんな「入り方」をしたのは初めてのことだ)。
それは、フェスで垣間見えたユーモアに溢れた摩訶不思議な、でもとことん信じられる世界だった。私はもちろん、彼の作品の大ファンにもなってしまい、今回のエッセイ集『あの素晴らしき七年』を、多大な期待と共に開いたのだった。
一読して思ったのは、「ああもうこれは、エトガル・ケレットそのものだ!」ということ。
たった一冊の短編集しか読んでおらず、彼の話す姿を数時間眺めただけなのにどうしてそんなことを言えるのか? でも自分でも驚くほど自信満々に言えるのだ、これはケレットそのものだ、と。なんだったら、私以外の人間でもそう思うはず! そう断言できるほど、ケレットのケレット節というのは唯一無二で独特、そしてもうひとつ驚くべきことがあって、それはエッセイ集であるはずのこの作品の読後感が、ほとんど短編集のそれと「同じ」だったということなのである。
もちろん書いてあることはノンフィクションだ。ケレットにとって初めての息子、レヴが誕生してからの「素晴らしき七年」分の彼の生活、そして思考が偽りなしに書かれていることには間違いない。『突然ノックの音が』のように、嘘をつき続けたあまり、その嘘が独自に世界を作ってしまったなんてことはないし、痔と共生しすぎて、いつしかその痔が自分よりも大きくなってしまったなんてこともない。
例えば一年目、電話の勧誘をどうしても断れないケレットは、なんとか衛星テレビ会社の電話勧誘販売員にあきらめてもらおうと、様々な嘘をつく。1分前に穴に落ちて額と脚にケガをした、などと。でも販売員はあきらめない。彼の嘘をものともせず、最終的に今まで話していた自分を兄だと言い、その兄が死んだとまで告げたケレットに対し、とんでもない勧誘の一言を放つ。
また例えば四年目、レヴと一緒にタクシーに乗ったケレットは、運転手のいやな感じに気づく。案の定彼はレヴのしたことに悪態をつき、それに怒ったケレットは彼に反撃する。一連のやり取りを見ていたレヴの子どもらしい、まっすぐで強くて透明な言葉に、ケレットははっとさせられ、そして運転手から思いがけない一言がもたらされる。
どれも真実、ケレット自身に起こったことだ。でもケレットの独白にはどこか作り物めいたおかしみがあり、ウェルメイドな起承転結がある。きっとそれは、ケレットがナチュラルボーンストーリーテラーであることの証明だろう。そしてそこには、ホロコーストを経験した彼の両親からの影響も多大にあるのではないだろうか。
彼は幼い頃、両親の作ったお話を聞きながら眠りについた。本がなかったからだそうだが、両親が話をこしらえることが出来ることを、ケレットは誇らしく思ったそうだ。なぜならそれは、どこのお店にも売っていない、彼だけのものだったのだから。壮絶(という言葉では言い表せない)な青春時代を過ごした両親から聞いた様々な物語、それがその息子に力を与えたのだ、きっと。
ケレットは彼の父の話について、こう書いている。
「どんなに見込みの低そうな場所でもなにかいいものを見つけんとする、ほとんど狂おしいまでの人間の渇望についての何か。現実を美化してしまうのではなく、醜さにもっとよい光を当ててその傷だらけの顔のイボや皺のひとつひとつに至るまで愛情や思いやりを抱かせるような、そういう角度を探すのをあきらめない、ということについての何か。」
それはこのエッセイ集にも通底しているものだ。イスラエルという複雑な国に住んでいる無神論者のユダヤ人、という彼が直面する苦しみ、息苦しさ、悲しみ、それらすべてにほとんど命がけといっていいユーモアでもって対抗する姿は、彼の両親が、そして強い人間がいつだってやってきたことなのではないだろうか。
これはスーパー面白いエッセイ集であり、言葉の、そして物語の力を信じている人だけが出来る勇気の書でもあるのだ。
(にし・かなこ 作家)