書評
2016年5月号掲載
滑稽で厄介で、そして愛おしき伴侶
――三崎亜記『ニセモノの妻』
対象書籍名:『ニセモノの妻』
対象著者:三崎亜記
対象書籍ISBN:978-4-10-100371-9
結婚って、考えてみたらすごいことだ。
この星の何億という人の中から、ただひとりだけをこの人と思い定め、長い生涯をずっと一緒に歩いていこうと決心するんだから。ラブラブなときもケンカをしても困難に遭っても、病める時も健やかなる時も、夫婦としてずっと一緒に。なんと不思議で荘厳な関係だろう。
三崎亜記の新刊は、そんな「夫婦」がテーマだ。
収められているのは四組の夫婦の物語。奇妙な味のもの、考えさせられるもの、コミカルなもの、泣けるほどに切ないものと、実にバラエティ豊かな作品集になっている。
だが、三崎亜記だもの、そこは一筋縄ではいかない。
日常の中に思いもよらない虚構を入れ込むのが三崎亜記の真骨頂。今回も作品の中には「何それっ!」と二度見ならぬ二度読みしてしまうような設定が盛り込まれている。それがかえってテーマを浮き立たせ、物語のエッセンスが抽出されて読者に届けられるという仕掛けだ。
第一作「終の筈の住処」は、結婚を機にマンションを購入した新婚夫婦の物語。三百世帯近くが入居している大きなマンションだが、なぜか他の住人とまったく出会わない。このマンションには本当に人が住んでいるのか?
表題作「ニセモノの妻」は、ある日突然、一人の人間とまったく同じ「ニセモノ」が出現してしまうという感染症が発生した世界が舞台。妻がいきなり「もしかして、私、ニセモノなんじゃない?」と言い出した。見た目も性格も記憶もホンモノとニセモノに違いはなく、ただニセモノにはその自覚があるだけなのだ。はたして妻はニセモノなのか。
この二作に共通するのは、確かだと思っていたものが揺らぐ不安だ。家を家たらしめているものは何か。その人が間違いなくその人であると断言できる要素は何なのか。記憶? ではもし事故か何かで記憶を失ったら? つきつめていくと「存在」とは何かという点まであやふやになっていく。
この二作はともに終わり方がいい。リドルストーリーにも似た余韻を残すエンディングが印象的だ。
ところが第三作から風合いが変わる。
第三作「坂」は、坂ブーム(何だそのブームは)が盛り上がる中、熱狂的な坂ファンの妻と、そこまで坂に入れ込めない夫の間に距離ができる物語だ。
妻は狂信的かつ過激なグループに所属して坂を占拠し、夫は地元住民らとともに坂を我らの手に取り戻そうと戦う。そもそも坂とは何ぞやという定義論に始まり屁理屈の応酬で、極めてコミカル。くすくす笑いが止まらない。だが、ふと気づくのだ。以前からそこにあったものに勝手な思い入れをくっつけて騒ぐ。後付けの理屈で人を貶める。これって、私たちの生活でもよく目にすることではないか?
そして本書の白眉は最後の一作「断層」だろう。イチャイチャにもほどがあるってくらい能天気にイチャイチャしてる夫婦の描写と、「家の中に断層が出現した」という謎めいた事態の後処理らしき話が交互に語られる。何が起きているのか最初はわからない。それが次第にわかっていく過程がキモなのでここでは明かさないが、幸せな暮らしが予期しない理由で突然終わりを迎える、その瞬間までのカウントダウンの話だということだけ書いておこう。
描かれているのは「決まっている別れ」だ。どんなに辛くても、悲しくても、受け入れざるを得ない。欠落に慣れていくしかない。夫の慟哭が聴こえるようだ。間に挿入されるイチャイチャの章があまりに幸せで、その対比に、こみ上げるものを抑えられない。
最後は、泣いた。比喩でも大げさでもなく、ぼろぼろと泣いた。何度も読み返しては、その都度、泣いた。三崎亜記、これは、ずるいよ。
結婚や夫婦というものの、あやふやな足元を掘り起こした前半二作と、強い結びつきを描いた後半二作。執筆中、著者自身がご結婚されたことが作品に影響しているかどうかは、外からはわからない。だが読み終わったとき、伴侶とともにいる今この時間を精一杯大切にしようと、心から思えた。
夫婦とは、ときに滑稽で、ときに厄介だ。だがそれ以上にいいものだと伝わってくる。本書は三崎亜記から「夫婦」への、祝福と応援の一冊なのである。
(おおや・ひろこ 書評家)