書評
2016年5月号掲載
物語だけが照らし出してくれる場所
――藤沢周『サラバンド・サラバンダ』
対象書籍名:『サラバンド・サラバンダ』
対象著者:藤沢周
対象書籍ISBN:978-4-10-316332-9
読後の感想を聞かれて、あらすじを話し出すような小説はつまらない。読むなら、言葉になろうとしない思いを擬音まじりの片言と身振り手振りを交えてでなくては伝えられないような作品がよい。舞曲からとられた『サラバンド・サラバンダ』という題名からもわかるように、この十の短編が収められた書物にはそうした言葉が満ちあふれている。
音、響き、律動、姿、意味、そして色、香り、これらは皆、言葉の要素である。読後感が違うのは、これらの要素を人は、個々別様に感じているからだ。一語にでも、複数の働きが折り重なり、無限の変化を現出する。
言葉は単に視覚的記号でもなければ聴覚的な振動でもない。だから科学が定める時間と空間の公理には従わず、本書に収められた「草屈(くさかまり)」のように情念となって心から心へ無声の言葉として伝わる。作家は、そうした心の情動を近代の深層心理学の地平で語るのではなく、歴史と伝統の源泉から直接汲みとっている。この短編の冒頭では能の「定家」に記されている式子内親王の歌を口ずさむ光景が描かれ、「明滅」での鳥のイマージュは仏教の唯識派の教学を髣髴させ、「燼(もえぐい)」では阿遮羅(あしゃら)すなわち不動明王が語られる。そうしたさまを読むと、伝統の奔流が現代の日本文学にも生きているのを瞭然と感じることができる。
小説を読むとは単に物語の筋を追うことではなく、名画を見るような美の経験でもある。比喩ではない。この作品では仏画にふれられるが、他の作品も「錵(にえ)」「禊(みそぎ)」といったように日本画に付される端正な言葉で命名されている。読者は作品を前にして文字を追うだけでなく、絵を見るように一節、一語を凝視し、あるいは少し離れ全体を見据え、佇むこともできる。
たとえば、男が記憶も覚束なくなった老父を訪ねる作品「案山子」で「無音(ぶいん)」と書き、あるいは老母のいる故郷を訪れる「或る小景、黄昏のパース」では生き物のような雲を「鈍重な鉛の腸(はらわた)」と記される言葉は、読み手の眼、耳、あるいは胸の封じ込めた場所をも刺激する。また、「分身」と題する作品には次のような一節がある。
「言葉がなくて感動し、死にそうになったなんてことも男にはあったのだ。湧き立った純白の微細な起伏にまで薄青い影を作り、胸がはち切れそうなほどの荘重さで隆起しながら、崇美だけが空に展けていることの不思議に、死にそうになる」。ここで活写されているのは単に作家の意識の解析ではなく、受け継がれる感情の、あるいは何ものかに託された情念の光景である。
同質の想いを抱いた先人は実朝や西行ばかりでなく、存在する。言語の殻を打ち破った、高次の言葉に憑かれた人間は、物書きにならないとしても言葉との関係を生涯絶つことができない。同じ作品の終わりにはこう記されている。
「レッド・ツェッペリンもルー・リードも好きだったが。また何もかも好きでなかった自分がいたのに違いない」。
随所に作家の郷里の方言と共に若き日に回帰する様が紡ぎ出されるのにふれると、小説の形でしか語ることのできない書き手の精神的自叙伝の一章を見るようでもある。そうした言葉にふれたとき、読み手もまた自己の内にあって生きる意味を静かに告げる、未だ語られざる物語の存在に気が付く。物語だけが照らし出してくれる場所は、誰の胸にもある。
本書を読み終えるとまざまざと顕われるのは、別離や死別、体力の衰え、あるいは鋭化する己れの魂に生きる感触を確かめつつある作家の姿であるよりも、遠く忘れていた読み手自らに託された、人生からの問いであるようにも思われる。
(わかまつ・えいすけ 批評家・随筆家)