書評
2016年6月号掲載
身体性をめぐる七つの変奏
――アレクサンダー・マクラウド『煉瓦を運ぶ』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『煉瓦を運ぶ』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:アレクサンダー・マクラウド著/小竹由美子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590127-1
アレクサンダー・マクラウド。初めて名前を知った作家だが、その作品世界は私の身体に深く痕跡をとどめた。
表題作「煉瓦を運ぶ」の原題は「ライトリフティング」で、「軽いものを持ち上げる」という意味。その短篇の作中にはこうある。〈どんな子でも、一回か二回でいいなら百ポンドの重量を持ち上げることができる。ところが、本当にこたえるのは、軽いものを持ち上げることなのだ。たぶんたったの三十ポンドくらいで、ゆっくりと始まる。ところがそれが一日じゅう続くと、職場を去ったあとも腕や脚にダメージが残っている。ああいう持ち上げる作業をしていると、まず膝をやられ、それから肩と首をやられる〉
作家専業となる前に肉体労働をしていた私にとっても、よく頷かされることである。百ポンドはおよそ四十五キロだから、五十キロの袋詰めセメント袋のずっしりとくる重さを(現在は、労働者の負担を軽減するために二十五キロになっている)、三十ポンド(約十三・五キロ)は、花壇に使うような普通の煉瓦が二・五キロなので、それを五、六個重ね持つことを想像した。そして、よほど重いものは、腰を落として慎重に持ち上げるが、それほどの重さではないときに前屈みになってから身体を起こすことを習慣的に繰り返した後にじわじわと襲ってくるダメージが蘇るようだった。農作業を長く続けて腰の曲がったままの老人を思い起こせばわかるだろうか。
強い陽射しの下、現場で煉瓦を敷いていく職人である主人公は、新入りのハイスクールのアルバイトが日焼け止めのローションを使おうとするのを見て、自分ならそんなことはしない、と注意する。手にオイルがついていると煉瓦をうまく扱えないばかりか、浸み込んで手を台無しにする、やわになるという。
本書を読む前に、ちょうど私は、島崎藤村の随筆集を再読していたところだった。そこにもこんな言葉があった。〈ほんとうの百姓というものは下手に土をいじらないものと聞く。/(略)むやみと土をいじるのは素人で、ほんとうの百姓は下手に手を触れることをしない。そんなことをしようものなら手が荒れてしまって、到底長い耕作に堪えられるものではないという。素人は土を見ると直ぐに手を使いたがる。百姓は手を大事にして、鍬や鋤を働かせる。/ほんとうの百姓のみが土の恐ろしさを知っているのだ〉(「土」)
どうだろう。和洋、世代を超えて、今どき珍しく、労働が求める繊細な身体の深所から発せられる共通した声に触れた思いがして、私はすっかり嬉しくなった。
本書に収められた七篇とも、年齢も、性別も、状況も異なる主人公たちは皆、自身を外側から見つめるまなざしを持ち、身体を通した感覚を拠り所として冷静に思考するのが特徴的で、さしずめ身体性をめぐる七つの変奏、といった趣がある。千五百メートル走を走る(「ミラクル・マイル」)。シラミの卵を探す(「親ってものは」)。煉瓦を持ち運ぶ(「煉瓦を運ぶ」)。溺れかけた者が泳げるようになる(「成人初心者Ⅰ)。自転車を漕ぐ(「ループ」)。とっくみあいをする(「良い子たち」)。交通事故経験者が国道を歩く(「三号線」)。
それらの行動に駆使される筋肉も繊細であり、マッチョに盛り上がった力瘤や、短距離走のような瞬発力に必要な白筋ではなく、さしずめ水泳など持久力が必要な有酸素運動に適した赤筋によってとらえられた世界がよく描かれていると言えるだろう。そして、カタストロフィーの一歩手前でとどまり暗示させる作風が、短篇の緊張度を最後まで保つことを成功させている。さらに、作品に共通する舞台であるカナダの斜陽化する自動車工業都市ウィンザーの街――合衆国のデトロイトとは橋、河底トンネルで結ばれ、大気汚染も問題となっている――までが、身体性を帯びて息づいているかのようだ。
集中、私がもっとも好ましく読んだのが「ループ」だった。自転車で医薬品を配達している少年が雪道ですべる。その彼が訪れる介護施設では〈つるつるするのは許されない〉という記述にはっとさせられ、ひどい褥瘡を目にしたり、乳房の嚢腫を診て欲しい、と頼まれたり、小児性愛者だと噂されているヘルニア持ちの裸同然の男に接することで、一足先に大人の世界を垣間見せられる少年と握手を交わしたい思いとなった。
(さえき・かずみ 作家)