書評
2016年6月号掲載
特集 村上柴田翻訳堂、営業中です。
グレート・アメリカン・ノベルの中の旧世界
My Name Is Aram
Saroyan, William
対象書籍名:『僕の名はアラム』
対象著者:ウィリアム・サローヤン
対象書籍ISBN:978-4-10-203106-3
本書は、絶版になりつつある古典・準古典を再翻訳、復刊によって再発見する村上柴田翻訳堂の第一弾。オースター、エリクソン、ゴーリーといった米文学の最前線に通暁した柴田元幸が、サローヤンの代表作『我が名はアラム』を『僕の名はアラム』として新訳した。
アメリカの小説には優れた観察眼と描写力を兼ね備えるやけに老成した「僕」たちが犇(ひし)めくけれど、本作の主人公アラム・ガログラニアンもまた、誰のことも馬鹿にしないという美徳を備えたその一人に思える。ただし、彼の主な関心は大自然との闘争や畏敬とか、既成概念への反発とかではなく、自らの一族の男たちの行状へと向けられる。大金をつぎ込んで沙漠でザクロの木を育てる「史上ほぼ最低の農場主」メリクおじさん、一族きっての阿呆さと美声を併せ持つジョルギおじさん、父権的独善性を笑いどころ満載の軽妙な台詞回しに託して披露する爺さま、コーヒーハウスで知り合ったアラブ人と何時間も黙ったまま「言葉になってない」会話を続けるホスローヴおじさん――アラムにとって、彼らの不可思議で理不尽で、でも憎めない言行は大人の世界の神秘そのものだ。やがて、掉尾近くであれこれ尋ねるアラムを見つめるホスローヴおじさんの視線が「わしらはみんな哀れな、燃える孤児なんだ。この子以外は」と物語るに及んで、読者はガログラニアン一族が二〇世紀初頭にオスマン帝国を脱出してここカリフォルニアへの移住を余儀なくされたアルメニア人の一族であることを思い出す。新世界しか知らないアラムとは違って、おじたちは故郷を失った「旧世界を憶えている」、「旧世界を愛する」人々なのだ。だからこそ、どの珍奇なエピソードも腹を抱えるほど笑えて、でもその後でちょっと悲しくなる。
おじたちのもたらす極上の笑いが、かつて少年少女だったあらゆる人に語りかけようとするトウェイン以来の新世界的な屈託のない語りを介して、故郷喪失という旧世界の悲しい熾火にくべられていく様は、グレート・アメリカン・ノベルとしてであれ、ディアスポラ文学としてであれ、幾通りもの読み方に耐える。でもそういうオトナな(従ってもしかしたらちょっと厭らしい)読み方は脇において、まずは無心な「僕」に戻りながら、少年の目に映った輝かしく壮麗な世界を思い出す縁とするのも悪くないと思う。なぜって? ガログラニアン家の爺さまがそう仰っているからです。「壮大な、美しい発言は、十一歳の子供の口からのみ出てくるに値する。自分が言っていることを本気で信じている者の口からのみ出てくるに値するのだ。大人が言ったら、その言葉の恐ろしさがさすがに耐えがたくなってしまう」。
(みやした・りょう トルコ文学者)