書評・エッセイ

2016年7月号掲載

ほんものの豊穣

――いしいしんじ『海と山のピアノ』

井上荒野

対象書籍名:『海と山のピアノ』
対象著者:いしいしんじ
対象書籍ISBN:978-4-10-436304-9

 たとえば「秘宝館」。
「なんでも屋」と思われる主人公の男が、兄貴分に呼び出されて仕事に出かける。「ボロボロ屋敷」で見つけたトランクを運ぶように命じられ、ゴージャスなマンションの一室、森のそばの製材所を経て、湖に浮かぶ「秘宝館」へ辿り着くという物語。
「ボロボロ屋敷」の中は「猛獣の皮を無理矢理ひきはがした現場みたい」にちらかっていて、やたらと鏡が置いてあり、爬虫類に似た男女が黙々と洗濯物をたたんでいる。マンションの部屋は「蚕の繭みたいな、ふわふわのクロス」で覆われていて、応対に出た老女が奥に引っ込むと、「なにか堅いもので、やわらかなものを打つ音」と、動物の悲鳴に似たものが聞こえてくる。製材所には「月を腹に収めたみたいな巨大な笑みを浮かべ」る髭男がいて、怪しい自家製なめたけをふるまう。そして秘宝館に無事、トランクを収めた帰り道、主人公は思いもかけない光景に遭遇する......。
 あるいは「川の棺」という一編。
 仕事でガーナのアクラという町にやってきた主人公が、街中でビール瓶、エビ、飛行機のかたちをした棺を見かけたことをきっかけにして、「川の棺」を探しに行く。お供は、始終何かを食べていないと昏倒してしまう博物館助手と、「ほんとうはダンサー」だと言い張るタクシー運転手。川の棺があるという村アシャンを訪ねて、彼らは川を下る。ようやく見つけたその村で、「ふだん直視することを許されていない、さまざまなものの揺れ動く影」を見る......。
 子供の頃、面白い本を読むと興奮して、すぐに真似をして書きたくなった。あの気分を思い出した。こんなふうにわくわくする、ぞっとする、深くて遠くて賑やかで行き止まりがないみたいな世界を、自分でも作り出してみたい、と熱望したのだ。
 もちろん大人になり、小説家となった今は、豊かな細部、物語にだけ奉仕する理屈、自由奔放に飛び跳ねる言葉の先に示されるもののことまで考えざるを得ないから、そんな無謀な真似はしないけれど。ただ、どうしたらこんなふうに書けるんだろうと、嫉妬するのみだけれど。
 そういえば、表題作「海と山のピアノ」の中に、こんな一節がある。主人公の「僕」が、父親を回想する場面。居場所がない人間を見れば誰彼構わず家に連れて帰ってきた彼を「父さんは穴があいたみたいな人だった」と「僕」は思い返して、「ほんもののおとなって、ほんもののこどもと、ほんものってことにおいては同じなんだ、きっと」と言うのだ。
 ああ、これは「父さん」が書いた小説なのかもしれないなあ、と思う。
 あるいはまた、「ほんもの」について考えてみたりもする。「ほんもの」ってなんだろう、と。大きな災害のあと、いろんなものを失った子供たちが空想した「見えない犬」のことだろうか(「ルル」)。鳥の声に導かれ、ときどきその場所を変える村のことだろうか(「ふるさと」)。人生に行き暮れた人々の前に突然あらわれ、海賊に勧誘する船長だろうか(「海賊のうた」)、それとも船が魔界に迷い込んだとき、その身を削って船員たちに食べさせて勇気づけた船長こそがそうだろうか(「野島沖」)。
 わからない。わからないし、時間をおいてこの本を再読したときには、またべつの「ほんもの」を見つけることになるのかもしれない。答えではなく「ほんもの」ってなんだろう、と考えたことだけを、いつまでも覚えているのかもしれない。
 本書の中で、海と山とは溶け合っていて、それらと人ともまた溶け合っている。人と、人でないものも溶け合っていて、海のこちらとあちらも、この世に生きているということの、こちらとあちらも溶け合っている。
 ああそうなんだよな、と頷くけれども、「教えられた」とは思わない。著者は教えようとなどはしておらず、ただ、彼がそう信じていることを感じる。信じている、ということを書いているのだと。人間は豊穣なものだと私は知っているけれど、そこにさらに豊穣なものが流れ込んできて、クラクラするほどの豊穣になり、私はそこに迷い込み、(もしかしたら「秘宝館」の主人公のように、自分ではそれと気付かずに、声を出して)笑っている。

 (いのうえ・あれの 作家)

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