書評

2016年7月号掲載

未来を生きる力を授ける見事な近現代史講義

――加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)

佐藤優

対象書籍名:『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)
対象著者:加藤陽子
対象書籍ISBN:978-4-10-120496-3

 私は、同世代の知識人で、何人か心の底から尊敬している人がいる。その一人が加藤陽子氏(東京大学大学院教授)だ。加藤氏、福田和也氏と私の2年近くにわたる鼎談をもとに『歴史からの伝言――"いま"をつくった日本近代史の思想と行動』(扶桑社新書、2012年)を上梓したことがある。複数回、鼎談で同席すると、その人の学識だけでなく、人間性、人生観もわかる。加藤氏は、実証性を重視し、史料をていねいに精査する歴史学者であるが、歴史に彼女を向かわせる動因には、人間に対する強い関心がある。加藤氏は、〈私の専門は、現在の金融危機と比較されることも多い一九二九年の大恐慌、そこから始まった世界的な経済危機と戦争の時代、なかでも一九三〇年代の外交と軍事です。〉(5頁)と述べている。この時代の軍人、政治家、外交官などについて、加藤氏は徹底的に史料を読み込んで、各人に内在する論理を精確にとらえている。私などは、個人研究をすると、その人物に無意識のうちに好感を抱くようになってしまうが、加藤氏は、歴史上の人物を突き放して見ることができる。恐らく、加藤氏は、人間の限界を超えて、歴史を突き動かす目には見えないが確実に存在する力をつかまえることに成功したのだと思う。それだから、歴史に登場する人物や出来事を相対化することができるのだ。
 同時に、加藤氏は、熱い魂を持っている。正義感が強く、ある人間の集団が、さまざまな理屈を付けて、別の人間の集団を殺す戦争を憎んでいる。熱い魂と冷静な頭脳が見事に結合しているところに本書『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の魅力がある。加藤氏は、専門書、一般書、啓蒙書を多数出版している(ちなみに、私が最初に読んだ加藤氏の作品は、『戦争の日本近現代史』[講談社現代新書、2002年]で、鈴木宗男事件に連座して、2002年5月14日に逮捕される1週間前に、当時の職場だった外務省外交史料館[東京都港区麻布台]から、潜伏先のウイークリーマンションに帰る途中、六本木交差点のビルの中の書店で購入した。逮捕される直前に私が読んでいた本がこの本だった)。ただし、本書には、他の加藤氏の著作とは異なる特徴がある。それは、栄光学園の中学生、高校生を対象とした講義をもとにした作品であることだ。加藤氏は、生徒に考える材料を与え、双方向性を最大限に生かしながら講義を進めている。生徒たちの「自分の頭で考える力」を養成する見事な講義を行っている。一例をあげると、1938年に中華民国の駐米大使となった胡適の外交戦略だ。
〈これまで中国人は、アメリカやソビエトが日本と中国の紛争、たとえば、満州事変や華北分離工作など、こういったものに干渉してくれることを望んできた。けれどもアメリカもソ連も、自らが日本と敵対するのは損なので、土俵の外で中国が苦しむのを見ているだけだ。ならば、アメリカやソ連を不可避的に日本と中国との紛争に介入させるには、つまり、土俵の内側に引き込むにはどうすべきか――それを胡適は考えたのです。
 みなさんが当時の中国人だとしたら、どのように考えますか。
――アメリカとソ連と日本を戦わせるための方法?
 そうです。日本を切腹へ向かわせるための方策ですね。日本人の私たちとしては、気の重くなる質問ですが。
――連盟にもっと強く介入させるよう、いろんなかたちで日本のひどさをアピールする。
 蒋介石がとった方法を、さらに進めるということですね。正攻法です。でも、連盟はあまり力にはならなかったし、アメリカは加盟国ではなかった。これは少し弱いかな。
――わからないけれど、ドイツと新しい関係ができてきたから、それを利用するとか......。
 くわしくは次の章でお話ししますが、ドイツが一時、中国を支えるようになるのは事実です。ですが、もっとアメリカとソ連にダイレクトにつながることですね。
――まずはイギリスを巻き込んで、イギリスを介してアメリカを引き込むとか......。
 アメリカがイギリスを重視していたというのは当たっています。でも、イギリスはドイツとの対立が目前に迫っていて、この頃は余裕がなかった。それでは、そろそろ胡適の考えをお話ししますね。かなり過激でして、きっとみなさん驚くと思います。
 胡適は「アメリカとソビエトをこの問題に巻き込むには、中国が日本との戦争をまずは正面から引き受けて、二、三年間、負け続けることだ」といいます。〉(380~382頁)
 生徒によく考えさせ、意見を言わせた後に、専門家的知見に基づく答えを示すという見事な手法だ。この講義を通じて、生徒たちは、歴史のダイナミズムを知ることができる。この知識は、講義に参加した生徒たちが将来、政治家、外交官、商社員などになって、国際舞台の第一線で活躍するときに必ず役立つ。加藤氏が教育者として卓越した能力を持っていることがこの作品の行間から伝わってくる。

 (さとう・まさる 作家・元外務省主任分析官)

最新の書評

ページの先頭へ