書評
2016年7月号掲載
予想だにしなかった思考と行為の地平
――互盛央(たがいもりお)『日本国民であるために 民主主義を考える四つの問い』(新潮選書)
対象書籍名:『日本国民であるために 民主主義を考える四つの問い』(新潮選書)
対象著者:互盛央
対象書籍ISBN:978-4-10-603791-7
「右」でも「左」でもなく、そして新しい立場でもなく、法案に賛成か反対かを判断する手前に踏みとどまって考えるために、私はこの本を書いている。
と著者はこの本の半ばで書いている。
「平和安全法制」について一度も真剣に考えたことのなかった私(しかし、これまで一度も投票所に足を運ばなかったことはない)は、この本を読んで予想だにしなかった思考と行為の明るい地平に導き出された。
ホッブズの「万人の万人に対する戦争(『リヴァイアサン』)」から脱するため人々は、「自分自身の生命を維持する自由(自然法1)」と「自分がされたくないことを他人にしてはならない(自然法2)」を実現するために、「社会契約」を結んで「人々の集合体」=国家を形成した。「自然法」は人間が制定したものではなく、神から与えられたもの、摂理であるとされる。
つまり「社会契約」も「自然法」もフィクションなのである。人間と社会の本質的理解にとってこれは非常に重要なことだ。人類は意識=言語を持つ過程で、人間を超えたもの、神あるいは神々の概念を勝ち得た。そして、それを世界の起源、造物主とした。転倒が起きたのである。我々に先んじて神があり、我々を造り給うた。壮大なフィクションであり、かつ人類の真実である。崇高な存在、高邁な思想は常に事後に、転倒して見出される。
民主主義とは「社会契約」が充全に実施される最良の方法だろう。
「一般意志だけが、国家の力を共通の善というその制定の目的に従って指揮することができる。(中略)一般意志は常に正しく、常に公共の利益に向かう」(ルソー『社会契約論』)。
だが、我々は「社会契約」を実際に結んだ覚えはないし、また「一般意志」を見た人もいない。現実に存在しないもの、フィクションだからだが、しかし、どうでもよいフィクションではない。「一般意志」は平和に生きるための前提であり、「個別意志(私としての私)」に先行しているのでなければならないのだ。
ここで著者はソシュールを援用して、「一般意志」をラングに、「個別意志」をパロールにたとえて犀利で説得力ある論を展開する。
さて、日本の戦後民主主義、日本国家の問題である。日本国憲法前文や一一、一二、一三条をGHQ草案とその源流である「アメリカ独立宣言」に照らして精細に読み解きつつ、草案には基本的人権と平等は創造主、神が授けたものというニュアンスがあるが、現行文からは消えていることを指摘する。消えているが、現行文の創造主はマッカーサーのアメリカである。国家主権の一部である交戦権はこれを放棄して、やがて日米同盟に基づき、自衛隊を介してアメリカが行使する。
「一般意志(私たちとしての私)」はアメリカに流出したまま、「個別意志」としての「私」の集合だけが横行する不完全な、機能不全の民主国家(消費者民主主義)として日本はある。それゆえに経済大国になりえた......。
しかし、著者は、「日本国憲法は誰が書いたのか、ということを問題にする必要はない」と言い切る。
憲法前文「私たち日本の人民は......」を書いたのはアメリカ人だが、これを過去の事実問題としてでなく、「この文を文字どおり現在形で、つまり主語である『日本国民』とは私のことでもある、と考えて、もう一度、今ここで読んでみるなら、どうだろうか」。
ここには「一般意志」がある。事後に、「一般意志」を先行するものとして、現憲法を読み直すこと、そうして行為として「私たち」を取り戻すこと、「私たち」を創造すること。人類が常に事後的に、神、神々、崇高な理念を見出して、そこに「私たち」を書き込んできたように。
(つじはら・のぼる 作家)