書評
2016年8月号掲載
横綱相撲の野球&ジャーナリスト小説
――本城雅人『英雄の条件』
対象書籍名:『英雄の条件』
対象著者:本城雅人
対象書籍ISBN:978-4-10-121132-9
一九八八年のワールドシリーズ。対オークランド・アスレチックス戦。ロサンゼルス・ドジャースのカーク・ギブソンは、満足に歩くことすらままならない膝の故障を抱えながら一点差の九回裏に代打で起用され、そして逆転サヨナラホームランを放った。
二〇〇三年のアメリカン・リーグ優勝決定シリーズ。ボストン・レッドソックスを相手に三勝三敗で迎えた第七戦。ニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜は、二点差を追う八回裏、ホルヘ・ポサーダのセンター前にポトリと落ちるヒットで二塁から同点のホームイン。ジャンプして雄叫びを上げた。
いずれも野球ファンの記憶に強く刻まれた名場面であり、野球という競技が観客の心を奮わせる力を感じさせるシーンである。本城雅人の『英雄の条件』は、そうした野球の力をしっかりと読み手に伝えつつ、同時に、野球界を蝕む闇にも真正面から迫っている。
米国西海岸。スポーツドクターの自宅兼クリニックの跡地から見つかったノートには、二〇〇五年にロサンゼルス・ブルックスで活躍した野球選手たちの名前と、そしてある数値データが記載されていた。そのノートの発見を契機に、同年にブルックスの四番打者だった津久見浩生にもドーピングの疑いがかけられる。ダブル・ヘッダーの第一試合で担架で運ばれて退場するほど負傷しながら、優勝のかかった第二試合に代打で起用され、試合を決める3ランホームランを打った伝説的プレイヤーに、疑惑が持ち上がったのである。津久見に加え、やはりブルックスの中心打者であり、二〇一六年現在も現役を続けているジェイ・オブライエンもまたドーピング疑惑の対象となった。ロサンゼルスの新聞が疑惑の追及を始め、そして引退して日本で暮らしていた津久見をターゲットに、日本のマスコミも動き始める......。
視点の置き方が巧みだ。ドーピング疑惑の津久見やジェイの視点では描かず、津久見の妻である恭子やジェイの代理人を務めるエイミーという二人の女性や、疑惑を追う雑誌記者の安達などの目を通して、二人のスター選手の過去が語られていくのだ。そうした描き方をしているが故に、"当時何が起こっていたのか"という謎が徐々に明かされていくスリルを愉しめるし、同時に、メジャーリーガーとして生きていくことの難しさも知ることが出来る。エイミーを通じて語られるスター選手と代理人と金の問題も興味深い。
そこにさらに加わるのが、二〇〇五年前後、問題のドクターから実際にドーピングを受けていた武藤勉という投手の視点だ。日本でのプロ生活の後、彼はメジャーを含め米国球界で十年を過ごし、その後帰国して現役を続けている。彼が米国での経験を回顧する描写や、あるいは、現役として再びドーピングに頼ろうとするシーンを通じて、読者は限界ギリギリのところで闘う選手の心理を深く理解することになる。
こうした複数の視点でプロの野球を描く本書が、プレイヤーの純粋な心も誘惑に負ける心も浮き彫りにすると同時に、チームの勝利を目指す心をもしっかりと語っている点にも注目したい。選手や監督、コーチだけでなく、ドクターやトレーナー、代理人にもきっちりと目を配り、著者は一つの大きなドラマを作り上げているのだ。やはり眼がいいのである。
しかも本書には、ジャーナリストとしての葛藤や矜恃、あるいは傲慢や堕落も織り込まれていれば、恋愛小説としての魅力も盛り込まれている。米国での人種意識も語られているし、一連の出来事に関する真相の驚きもきちんと終盤に配置されている。そしてもちろん、野球小説としてのクライマックス――それも極上の――も用意されている。
本城雅人は、スポーツ新聞の記者を務め、その後、野球小説『ノーバディノウズ』で松本清張賞の最終候補となりデビューした。同書で第一回サムライジャパン野球文学賞を受賞し、その後も野球や記者を題材にした小説を書き続けてきた彼が、まさに自分の土俵で横綱相撲をとり完勝した、と評すべき一冊であり、読後、深い満足感を覚えた。ちょうどリオ五輪の時期である。ロシア陸連の組織的ドーピング問題なども想起しつつ、是非御一読戴きたい。
(むらかみ・たかし 書評家)