書評
2016年8月号掲載
そのままでいてください
――ペーター・シュタム『誰もいないホテルで』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『誰もいないホテルで』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ペーター・シュタム著/松永美穂訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590128-8
登場人物はみなどこか疲れていて、世間に対しても、自分自身に対しても、波長のあわない状態をもてあましながら日々を送っている。同時にまた、閉塞を破るなにかの訪れを待って、進んで緊張の衣をまといもする。日常を脅かす不安を描く書き手はいくらもいるだろうけれど、ペーター・シュタムが特異なのは、心の濁りを、一点の曇りもない透明なアクリルを通してつかみ取るという、方法的な矛盾を完遂している点にある。本書は、その美しい成果のひとつだ。
若いスラブ文学研究者がマクシム・ゴーリキーの戯曲について論文を書くため、山上のホテルにやってくる趣向の表題作がすでに示唆的である。一度破産したのち、何年か前に営業を再開したというそのホテルに予約を入れ、やっとの思いでたどりつくと、どうも様子がおかしい。ロビーは薄暗く、家具には白い布がかかっている。広壮な建物にいたのは、電話応対してくれた女性ひとり。水も電気も切られていて、食事は冷たい缶詰で済ませなければならないし、パソコンも使えない。にもかかわらず、彼はなぜか残ることを選ぶ。
この「なぜか」わからない行動をうながすのは、耳の感覚だ。シュタムは複数の言語圏が並立するスイスの、ドイツ語作家である。右の一篇で、主人公は、ホテルに予約を入れたとき相手の名前を聞き取れず、「どの地方の訛りかも判断できなかった」。フランス語やイタリア語ではなく、おなじドイツ語の、かぎられた地方のなかで差異化された微妙な訛りに気づくことは、日常のなかのひとつの亀裂であり、慣れ親しんだ土地とそこに根付いているはずの言語との齟齬から、不安の霧がひろがっていくのである。
イタリアの海岸近くの貸別荘で若い夫婦が休暇を過ごす「自然の成りゆき」でも、聴覚は大きな役割を果たしている。別荘が情報とちがっていたことに不平を漏らす妻と、「ただすべてを甘受」している夫のすれちがいは、隣にやってきた二人の子連れ一家の奇妙な行動に、そしてなにより子どもたちの騒々しい声によって増幅される。この空間に色をつけるのが、子どもたちの母親の、「シュヴァーベン方言丸出しの意地悪そうな声」なのだ。声は、しかし、とつぜん聞こえなくなる。望んでいた静寂が、今度は不安を掻き立てる。一家の不幸を知った若夫婦は、不安と悔悟を、思いも寄らない性愛の行動に溶け込ませる。
シュタムの手に掛かると、いくらか突飛な設定が日常となめらかに繋がってしまう。閉鎖されたホテル、自然の残る森の対極にあるショッピングセンター、広大な工場跡地に残された守衛小屋、野外コンサートが終わったあとの草地を見下ろす家。窓から外を見やる登場人物たちの虚ろな心は、作中の小道具を借りて言えば、日用品がそのまま遺品になりかねない入院時のスーツケースみたいなものだ。シュタムは、そこに言葉を詰める。「スウィート・ドリームズ」と題された一篇で、彼は自身を連想させる作家を登場させ、「アイデアは道に転がっているんですよ」と創作の秘儀を明かしている。バスのなかで偶然見かけた若いカップルからでも物語を書くことができる。ただし結末は、「話を最後まで書いたときに」しかわからない。
ならば、シュタムの世界には閉塞感しかないのだろうか。いや、むしろその逆だ。舞台をニューヨークに移した掌篇、「コニー・アイランド」に、こんな場面がある。海岸のブロックに腰を下ろして煙草を吸っている語り手に、浜で写真を撮り合っていた女性が近づいてきて、彼の写真を撮ってもよいかと尋ね、二度、シャッターを押す。そのときひとつの質問をした彼に、カメラを持った女性はこう答えるのだ。「そのままでいてください。それで完璧です」。
そのままでいることがいかに大変か。そのままでいないことがいかに不安か。シュタムの登場人物たちは、「愛すること」と「愛されること」のあいだで踏み迷い、「愛さないこと」と「愛されないこと」の違いを肌で感じながら、それをあえて明確な言葉にしない。ためらい。あきらめ。さみしさ。そんな紋切り型で世をはかなむかわりに、目の前の日々に身を委ね、心の保全装置が少しずつ狂っていくさまを冷静に観察するだけである。
ところが、そんな冴えない日々の雲間から、不意に奇妙な光が、ほとんど希望に似た光が差し込むのだ。凡庸さの連続が豊饒な生の厚みに変わるその一瞬を、シュタムは逃さない。そして、余計な意味づけもしない。放置されたいくつもの可能性を、飾りのない言葉の湖の底に、ゆっくり沈めていくだけである。
(ほりえ・としゆき 作家)