書評

2016年8月号掲載

星野道夫がいま人を惹きつけるのはなぜか

――湯川豊『星野道夫 風の行方を追って』

松家仁之

対象書籍名:『星野道夫 風の行方を追って』
対象著者:湯川豊
対象書籍ISBN:978-4-10-314932-3

 自然写真家であり、稀有なエッセイストであった星野道夫が、ヒグマの事故で亡くなって二十年になる。
 人を失う痛みも、故人にまつわるさまざまな記憶も、しだいに薄れてゆくのにじゅうぶんな時間だ。
 しかし先日、星野道夫の代表作のひとつ『旅をする木』(文春文庫)が累計二十万部を超えたと聞いて、ほんとうですか? と思わず声が出た。
 星野道夫の担当編集者であった四半世紀前の自分の感覚からすれば、桁がひとつ多い。今年の三月、NHK―BSの番組「星野道夫 没後20年"旅をする本"の物語」で取り上げられたことも、後押しになったかもしれない(地道に取材された、いい番組だった)。しかし、二十万部に迫るロングセラーになっていたのは、昨日今日の話ではないらしい。しかも、若い読者が多いという。
 星野道夫の本はなぜ人を惹きつけるのか。新書のタイトルのような質問をしてくる人がいたら、それはですね、と涼しい顔で解説したい。しかし、これがなかなか難しい。「いいものはいい」と言って済ませたくなる。ことばで説明しはじめると、なにかが違うと感じてしまう。星野道夫の写真や文章には、そういうところがあるのだ。
 たとえばいまあなたは人生上の難問を抱えている。林のなかの小径を抜けるとそこは岬の突端で、目の前には夕刻の日差しを受けながら海がうねっている。下方から崖に波があたって砕ける音。背後からは聞いたことのない野鳥の囀り。水平線に沿ってタンカーらしき船がゆっくり遠ざかってゆく。濃い潮の匂いのする風を感じたとき、ふと大丈夫だと思う。
 なぜそう思ったかを説明してくれませんか? と突然問われたら、あなたはどう答えられるだろうか。
 本書、『星野道夫 風の行方を追って』は、そんな難しい仕事に正面から取り組んだチャレンジングな本である。
 湯川豊は文藝春秋の担当編集者として『旅をする木』を編集した。デビュー以前のアラスカ大留学生であった頃から星野道夫を知る人でもある。一対一で長時間話を聞いた『終わりのない旅 星野道夫インタヴュー』(SWITCH LIBRARY)という一冊もある。つまり本書は、星野道夫とは何者かを考えてきた著者の、集大成となる一冊なのだ。
 ふたつのパートに分け、角度を変えて迫る姿勢は明快だ。ひとつは、その生涯をふりかえりながら、表現された世界を読み解いていく。もうひとつは、『星野道夫著作集』(全5巻)の各巻の解説として書かれた、個別の緻密な作品論。
 湯川豊はかつて、『須賀敦子を読む』(集英社文庫)を書く際に、担当編集者として知る須賀敦子の人柄やエピソードに触れることを自分に禁じ、書かれたものだけを精読し論じることで須賀文学の核心に迫った人である。いっぽう本書では、個人的に知る星野の横顔もさりげなく書かれている。しかし、テキストがすべてである、とする姿勢はまったく同じだ。
 本書の白眉はなんといっても「生成する文章」と題した章ではないかとおもう。一箇所だけ引用する。
「ひとつの経験があり、それが書きしるされ、さらに次の経験のなかに前の経験が自然に姿を現わしてその経験の真の意味を開示する。それが星野道夫のエッセイ(文章)の基本的な構造である」
『イニュニック[生命]―アラスカの原野を旅する』(新潮文庫)の冒頭の章を引用しながら論じている箇所である。星野道夫が今日も、いや今日だからこそ、熱心に人々に読まれるのはなぜなのか。その理由がおのずと浮かびあがってくる。
 詳細はぜひ本書にあたってほしい。しかし湯川豊の言葉を借りながら言えば、こういうことである。ひとつひとつの時間を生き生きと注意深く生きるとはどういうことなのか――それを自己啓発的にではなく、言葉でくくられる以前の何かを伝えるものとして、星野の文章がある。経験的に生成される文章だからこそ読者を静かに揺さぶるのだ。それほど生きづらい時代を、わたしたちはいま生きている。
 昨日、養老孟司さんにひさしぶりにお目にかかり、星野道夫の話をうかがうことになった。湯川豊の読みかたを外側から照らしだすものとして、そのときのことばを聞いた。
「文学というのは、こんなことを文章で書いて伝えることなど到底できないだろうということが書かれたとき、文学になるんです。でも、そうではなくなってきたでしょう。星野さんの書いたものはつまりね、かつて文学がやっていたことなんですよ」

 (まついえ・まさし 小説家、編集者)

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