書評
2016年9月号掲載
「音楽する」小澤征爾
写真集『小澤征爾 Seiji OZAWA』 小澤征爾 写真・大窪道治
対象書籍名:『小澤征爾 Seiji OZAWA』
対象著者:小澤征爾/写真・大窪道治
対象書籍ISBN:978-4-10-350211-1
私はもう十四、五歳の時、その生き方を始めていた、と具体的な事実の記憶にそくして思いますが、ある一冊の本に引きつけられると熱中して読みかえすことを繰り返し、古書店で見つけることのできた著者の本をすべて同じ方式で読む......その連続が生きること、というような一生を(もう八十一歳ですから、そういっていいと思いますが)過ごして来ました。
それはひとりの秀れた友人、先生に出会うと熱中して、(といっても相手が生きている人間ですから本のようにはゆきませんが)、その人にあたうかぎり影響を受けようとつとめる、少なくともこちらではそう思い込んで日々をすごすことになりました。もとより、先方でどう受けとめていてくださるかは別の話で、しかしともかく長いお付き合いをする、そういう一生でした。その多くの方が、たいてい私より年長ですから、いまは幾人もが亡くなられてしまい、いまはその人たちの一人ひとりを想起する......ということで、やはり年をとっての不眠が続く日々を、そのかぎりでは楽しみもあじわいながら生きています。
私がフランス文学者渡辺一夫さんの『狂氣についてなど』というエッセイ集の古本を読み、続いて『フランス ルネサンス断章』という新刊の岩波新書を読んだのも、典型的なその例です。私は先生の本を古本屋で見つけうるかぎりすべて繰り返し読む高校一年でしたが、先生の教えていられる東大の文学部フランス文学科に進学しました。そこまではいいのですが、教室で出会った学生たちはじつに見事な秀才ばかりで、先生の研究室に残れる見通しなどまったくなく、それでも文学研究と無縁でない仕事をしようと、小説を書くことを始めました。現にいまも、もう小説を書くことは止めましたが、読むことは学生時代に買いもとめたフランス書を中心に少しずつ続けています。
友人についても、初めて武満徹の音楽を聴き、その文章を集めて読むうち御本人にお会いできてから、私の側からいえば「友人関係」の中心にある人と、武満さんをとらえ続けていきました。近くに住まうことも続き、そのお宅でヨーロッパから帰られたばかりの若い指揮者小澤征爾さんに紹介されて、こちらは生まれた時の頭部の障害が続いた生を送っている(しかしかれ独自の生きいきした日々を私らと共生している)長男ともども、小澤さんの音楽会とCDとはなにより大切です。
私らはまず小澤さんの音楽に魅了されたのですが、その言葉の表現にも特別な思いをいだいています。私は小澤さんがヨーロッパで成功され、初めて日本に里帰りされた際(もとより誰でも知る通り、その活躍はつねに世界規模ですが)ある写真週刊誌で対談の機会を得ました。かれの話ぶりの独自な魅力は音楽会での表情、身体表現ともども、これこそ特別なものでした。私は強く心にきざまれた、小澤さん独自の日本語の用法を、エッセイに書いたことがあります。もちろんその結果、というのではまったくなく、その後とくにテレヴィ出演をつうじて小澤さんが日本語世界に直接もたらした一般的な影響ですが、ひとつ実例をあげます。
「音楽する」という言葉。これと同じ言い方をする方は、この国の音楽界でいられたかも知れません。しかしかれのこの言葉を初めて聴いた際の新鮮さ、鋭さ、力強さ、そこにみなぎっている喜びの感情は、やはり小澤さん独特のものとして、私らの同時代史にきざまれていると思います。
作家としていえば、「文学する」という言い方がないとは思いません。しかし、小澤さんが「音楽する」といわれる時の表現性と、それはまったく違ったものではなかったでしょうか? 少なくとも、私はそのように「文学する」とはいわないし、実際そのように「文学している」と思うことはなかった、と考えます。
しかも私は先にいった息子がたとえば新しいクラシックのCDを聴く様子を、そのお土産を持ち帰った人間として、ああ、かれは「音楽する」生命の輝やきを示している、とかれとはまた違った意味で喜び、かつその私自身の受けとめがほかならぬ小澤言語によってなりたっているのを自覚しているのです。
(おおえ・けんざぶろう 作家)