書評
2016年10月号掲載
迷い子たちの家
――トンミ・キンヌネン『四人の交差点』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『四人の交差点』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:トンミ・キンヌネン著/古市真由美訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590130-1
哀しみと喜び、出会いと別れ、信頼と裏切り、生と死......人間の営みに生じるさまざまなものを内包して、家はそこに暮らす人々を雨風から守る。一つ屋根の下に集う家族は寝食を共にし、互いの存在に安らぎを見出だす。しかし時として、家族を結びつけるはずの部屋の扉や壁こそが、彼らをお互いから遠く隔ててしまう。フィンランドの寒村に暮らす一家族に流れた百年の時間を描いた本作は、そんな「家」の物語だ。
舞台はフィンランド北部に位置するオウル近郊の村。物語は大きく四つの章に分かれ、助産師のマリア、その娘で写真技師になったラハヤ、ラハヤの息子と結婚したカーリナ、ラハヤの夫のオンニの順に、それぞれの視点から秘められた家族の歴史が綴られていく。
物語の冒頭に置かれたマリアの章は、なんとも力強い。悲しい過去を抱え、血まみれの死産の場という悲惨な局面に怯えながらも新米助産師としてその手にプーッコ(フィンランドの伝統的な片刃のナイフ)を握ったとき、彼女は自らの人生をしかと握ったのだ。以後数十年、彼女は生まれてくる赤ん坊たちのために自転車のハンドルを握り、幼い娘や孫たちの手を握り、老いて思うままにならない体でパンケーキを焼くためにコンロの手すりを握る。一生を通して助産師という職業に誇りと喜びを感じ、地に足をつけて心に決めた道を歩む彼女の存在は、自ら築いた家の内外を明るく照らした。
しかしその娘のラハヤは違う。写真技師という最先端の職を得、家のなかでは子どもたちと夫に囲まれていても、彼女はどこか不安気ではぐれた風船のように頼りない。生まれ育った母の家でも、戦後に夫が手ずから建てた家でも、彼女は自分の居場所を探しつづけて、常に途方に暮れているように見える。一瞬の不安や疑念はみるみるうちに家じゅうに孤独の巣を張り、彼女を家族から遠ざける。迷子になった彼女がおずおず伸ばす手は誰にも握られず、むなしく宙を掴むだけだ。夫と母に先立たれ、老いてますます孤立してくラハヤのすがたは痛々しい。
しかしカーリナ、オンニと続く章を読んでいくと、孤独を抱えていたのはラハヤだけではないと知れる。そこに暮らす誰もがそれぞれに痛みや秘密を抱え、それを分かちあえる誰かに向かって手を伸ばしていたのだ。とりわけオンニの秘密はマリアの章の前に据えられた短い病院のシーン(ここでラハヤは、おそらくはじめて息子夫婦の手を強く握っている)にも結びつき、長らく彼らの家に落ちていた影を解き明かす一つの鍵となっている。
それぞれの心に氷河のように横たわる深い孤独を描きながら、しかしこの小説は、不思議なうす灯りに満たされている。しんとした森の木立に落ちる夜明けの柔らかな光のように、人々の営みを慈しむような著者の繊細な筆致は、そこにある影を木立に溶けこませ、朝露をあえかに輝かせる。手に入れたばかりの自転車でマリアが故郷に向かって疾走し、家族になったばかりのオンニが義理の娘のアンナとそりすべりをし、カーリナの一家が湖で水面をのぞきこむとき、その情景は、ささやかだけれど確かな輝きにあふれている。そのささやかな輝きが家路を照らす灯りとなり、彼らは共に家に帰るのだ。彼らをつなぎとめ、そして彼らをいくつもの扉や壁のなかで迷い子にしてしまう家に。
「人生は建物だと、マリアは思っている。多くの部屋や広間を持ち、それぞれにいくつもの扉がある、大きな家。誰もが自分で扉を選び、台所やポーチを通り抜け、通路では新たな扉を探す。正しい扉も、間違った扉も、ひとつとして存在しない、なぜなら扉は単に扉でしかないからだ。」
助産師の稼ぎで精力的に家を増築していったマリアは、人生そのものを家になぞらえた。くぐりぬけていく扉の先に何が待ち受けているのか、自分がどこに向かっているのか、はっきり知ることはないまま、人は一人きりで目の前の道を歩まなければならない。本書のタイトルが示唆する通り、その道が偶然に交差する場所こそが、彼らが暮らす「家」というものなのだろうか。苦労の末にようやくたどりついた我が家は、彼らが辿る孤独な旅路の一通過点に過ぎないのだろうか。しかしその交差点で行き会った者が、互いの手を取り、抱きあい、「あたしたちふたりとも、ここにいましょう」と誓うとき、彼らは確かに、そこで共に生きている。その声は寄り添う二人の熱を宿して輝きを放ち、刹那の交差点を永遠の「家」へと変えるのだ。
(あおやま・ななえ 作家)