対談・鼎談
2016年10月号掲載
『昭和天皇 御召列車全記録』刊行記念対談
全貌が明らかになった「天皇の旅路」
保阪正康 × 原武史
『昭和天皇実録』は鉄道情報の宝庫だった!?
数千点にのぼる鉄道資料と突き合わせてあぶり出した仰天の昭和天皇鉄道乗車記録。
監修者原武史と保阪正康氏が異色の「皇室本」について語り合った。
対象書籍名:『昭和天皇 御召列車全記録』
対象著者:監修/原武史 日本鉄道旅行地図帳編集部編
対象書籍ISBN:978-4-10-320523-4
『昭和天皇実録』からスピンオフ
日本鉄道旅行地図帳編集部(以下編集部) この本は一昨年公開された『昭和天皇実録』(以下『実録』)をもとに、昭和天皇の皇孫時代から崩御前年まで、鉄道に乗車した記録を抜き出し、鉄道の資料と突き合わせて、年表にまとめたものです。原さんには時代解説と監修をお願いしました。
保阪 まあよく作りましたね。年表見て、感心するやら、呆れるやら......(笑)。泊まった旅館まで実によく調べていますね。これは全部『実録』に書いてあったものですか?
編集部 基本は『実録』の本文です。
保阪 この種の本は初めてでしょうね?
編集部 御召列車をテーマにした本はこれまでも数は多くはありませんが、出ています。ただ乗車記録を網羅的にまとめた本はありません。これは『実録』が公開されて初めて可能になりました。
保阪 ということは、『大正天皇実録』や『明治天皇紀』などから記録を抜き出すのも可能ということですか。
原 やろうと思えばできますね。
保阪 御召列車といっても、種類があるんでしょう? 天皇が乗る列車のことを指すんですか?
原 時代によって変わりますが、天皇・皇后・皇太后が乗る列車で、皇太子を含める場合もありました。
保阪 車両は日本製ですか?
原 明治初期は日本製ではなくて、車両はイギリス製、機関士もイギリス人、運行の基本となるダイヤグラムもお雇い外国人が引いていました。日清戦争の頃から、国産の機関車が製造され、ダイヤグラムも日本人が引くようになりました。
保阪 なるほど。明治三十年代に当時皇太子だった大正天皇が全国をまわりますね。あの時も御召列車に乗ったのですか?
原 必ずしも御召列車ではなくて、一般の乗客が乗る列車にも乗りました。
保阪 御召列車の車両は現在でもどこかに保存されているんですか?
原 大宮の鉄道博物館には歴代の御料車(天皇・皇后・皇太后が乗車する車両)が展示されています。九州鉄道がドイツから輸入した2号御料車には、東京神田須田町にあった交通博物館時代に、車両の中に入ったことがあります。
保阪 明治時代の列車ですと、たとえば時速どのくらいだったのでしょうね。
原 表定速度(走行距離を時間で割った値)三十キロぐらいでしょうか。明治二十四年の大津事件の際、明治天皇は事件の翌日急遽列車を仕立てて京都に行くんですけど、朝六時半に新橋を出発して、夜九時十五分には京都に着いています。新橋~京都間十四時間四十五分。表定速度は三十五キロぐらいです。その程度のスピードでした。
保阪 ロシアのニコライ皇太子はどこかに入院していましたっけ。
原 京都の宿泊先に戻ります。
保阪 明治天皇はそこに駆けつけたわけですね。
原 基本的には明るいうちにしか御召列車は走りませんから、いかに異常事態だったかがわかりますね。この時期は途中で一泊するのが普通でした。
洋風好みだった昭和天皇
保阪 年表のひとつひとつの列車に駅の発車と到着時刻が入っていますけど、国鉄にはこうした細かい資料というのが残っているんですか。
原 残っていますね。
保阪 公開されているんですか?
編集部 もちろん全部が公開されているわけではないと思います。調査をしていて感じたのは、天皇は個人として日本で一番記録されている人なのでは、ということですね。資料を探しに行くと、必ず何らかの新しい資料が出てくる印象です。
原 そうですね。行幸があるとその県とか郡とか市が奉迎記録を作ります。もちろん鉄道の記録だけではありませんが、かなり詳細です。写真もあります。
保阪 御料車の中はどんな内装だったのでしょうね。ソファーがあり、寝台もあったのかな。
原 休憩室はあっても寝室はありませんでした。さきほども言いましたが、御召列車は、夜、走りませんから。
保阪 厨房はあるんでしょう?
原 はい。たいていの御料車には大膳室が付いていました。食堂の付いた御料車もありましたが、食堂車として製造された9号御料車を除けば、それほど広くはありませんでした。
保阪 簡素なんですね。
原 そうですね。あとは剣璽を奉安する場所がある。大礼の時だけ、賢所乗御車が連結されました。また天皇が乗る御料車と皇后、皇太后が乗る車両は別にありました。
保阪 トイレもついている?
原 昭和天皇は洋風好みだったので、便座は洋風だったのではないでしょうか。昨年公開された御文庫付属室のトイレは洋風でした。
編集部 その理由はヨーロッパ巡遊の影響であると原さんが解説でお書きになっています。
保阪 そうかもしれませんね。あとは随行の人たちや警備、鉄道関係者の乗る車両が連結されているわけですね。
編集部 全列車というわけではありませんが、列車ごとの編成がわかるようになっています。御料車以外の車両に、「供奉車」という車両が連結されています。
保阪 十九ページのこの図ですか。「ホロハニ」とか、これは車両の記号ですか? マニアックだなあ(笑)。
編集部 「ホ」は車両の重量をあらわす記号です。「ロ」は2等車、「ハ」は3等車、「ニ」は荷物車です。
最後の歌会始で「国鉄」を詠む
保阪 運転をする人は国鉄内部でも優秀な人が選ばれたんでしょうね。
原 戦前は新聞に名前が出たんですよ。「栄光の機関士」「栄光の乗務員」と見出しがついて。昭和七年の陸軍特別大演習の時は、東海道本線ばかりか私鉄の乗務員も名前が出た。談話まであって、「斎戒沐浴して備えた」などと語っています。
保阪 その人選は、やはりベテランとか。
原 東海道本線の場合は大阪鉄道局で選ばれた人。無事任務を果たすと、その談話も出ていました。
編集部 御召に関わる鉄道員はたいてい斎戒沐浴していたようです。
保阪 天皇と言葉をかわす機会はあるのかな。
編集部 ホームで運転士や駅員と接する機会も設けられたようです。事務方の職員には「車内拝謁」が行われていました。
保阪 そのことは『実録』にも出てきますね。駅長が貴賓室で挨拶するとか。ところで昭和天皇は列車に乗るのが好きだったんだろうか。御製も詠んでいるはずです。
原 昭和六十三年の歌会始で「国鉄」を詠みました。結果としてこの歌が歌会始の最後の歌になりました。お題は「車」でした。
国鉄の車にのりておほちちの
明治のみ世をおもひみにけり
保阪 歌に「国鉄」が入っていますね。明治天皇と重なって「国鉄」というのは、どういう状態があらわれているのかな。
原 たぶん日本国有鉄道だけを指すのではなくて、明治からの官設鉄道・国有鉄道を指しているのではないでしょうか。
保阪 年表を見ていくと、昭和十七年の戦勝祈願伊勢神宮参拝とか戦時下でも御召列車が走っていますね。
原 今回相当調べましたね。
編集部 昭和十七年十二月の御召列車ですね。この列車には首相の東条英機も乗車していたんです。ある本に、高射機関砲を積んだ貨車を列車の前後に連結したと書いてあったので、写真を探しましたが、見つけられませんでした。機関砲を御召列車の前を走る指導列車に積んでいたようです。
保阪 この年四月、ドーリットルの爆撃がありましたね。もしこの御召列車のことをアメリカ軍が知ったら、爆撃したでしょうね。
原 したでしょうね。
保阪 戦争の最終段階なら政治的計算も働くでしょうけど、この時期であれば爆撃したと思います。
原 さすがにダイヤまでは把握していなかったでしょう。ただこの御召列車は、爆撃されることも想定していたのではないかと思います。指導列車に機関砲を積んでいたということですが、そうすると本列車には全く準備がなかったことになる。そう言い切っていいのかどうか。公文書に残さなかった可能性はあると思います。
保阪 この本は鉄道ファン向けなんだろうけど、御召列車をきっかけに近代史のいろいろな側面を語ることもできますね。
原 御召列車の記録はそのまま天皇の行動記録でもあります。天皇や近代史の研究者にも是非読んでもらいたいですね。
保阪 私も参考になりましたよ。
編集部 ありがとうございました。
(ほさか・まさやす ノンフィクション作家)
(はら・たけし 放送大学教授)