書評

2016年11月号掲載

佐藤優『ゼロからわかるキリスト教』刊行記念特集

世界宗教の2000年を200ページで。

阿刀田高、橋爪大三郎

キリスト教は〈神と人間〉をどう考えてきたのか? 他宗教との対立の核心はどこにあるのか?
今日の日本人の絶対教養をギュッと詰め込んだ講義録、2人はこう読み解いた!

対象書籍名:『ゼロからわかるキリスト教』
対象著者:佐藤優
対象書籍ISBN:978-4-10-475211-9

たまには神に思いを馳せて

 日本人は宗教に対する関心が薄い。祭儀のためにのみ関わっているケースが多い。欧米社会を席巻するキリスト教についても、
「新約聖書と旧約聖書のちがいは、なんなの?」
 初歩的な質問にも答えられなかったり、
「カトリック教会の牧師さんがいらして......」
 などと不正確な言葉を発したりする。イスラム教やユダヤ教など他の宗教についても信者や専門家を除けば、すこぶる知識が乏しい。宗教について、もう少し思案を深めてもよいのではあるまいか。
『ゼロからわかるキリスト教』は、そんな懸念に応えて博覧強記の著者が新潮講座で語り、それをまとめた一書である。"ゼロからわかる"とタイトルを置きながら、いま述べたような初歩的な疑問やまちがいに入念に手をさしのべるものではない。むしろ宗教とはなんなのか、信仰とはどうあるものなのか、長い歴史の中で宗教がどう機能し、あるいはどう機能を怠ってきたか、などなど該博な知識と理論を開陳する著述と見たい。だから、あえて言えば、この"ゼロからわかる"は"初歩から"ではなく"基礎から"と解するのが正しいように私は思う。 そもそもがレッスンの受講者を相手に語ったものだから、平易なトピックスも散見される。「イスラム国」を語り、ピケティの『21世紀の資本』に触れ、ヤン・フスの火刑をたどり、"クリティーク"という言葉の本義などにも筆を伸ばしている。因(ちな)みに言えば"クリティーク"は、反対を前提とする批判ではなく"相手の言っていることが何であるかを対象としてまず認識する。できるだけ虚心坦懐(きょしんたんかい)に認識して、それに対して自分は賛成しているのか、反対しているのか。基本的に賛成だけれども、あそこの部分は賛成できない。あるいは全体的に賛成だけど、さらにこういったことを付け加えたい。そんな具合に、対象として客観的に受け止めた上で自分の評価をしていくことを指す言葉なのです"と、わかりやすい。こういう知識が随所に散っているのも魅力の一つである。 そして本論はマルクスへ。第一章ではマルクスの名論文「ヘーゲル法哲学批判序説」を丁寧に解説している。マルクスは「宗教は民衆のアヘンである」と言って宗教を批判した立場であり、もちろん無神論者だったろう。しかし現代の神学は、この無神論者の宗教批判に論拠を得ている、と佐藤優氏は断定しているのだ。そこがかなりややこしいが、おもしろい。
 佐藤氏自身がプロテスタントを信ずる母のもとで育ち、マルクスに出会って無神論に傾き、しかしその無神論を熟慮することにより確固たるキリスト教徒になった、というキャリアの持ち主なので、このあたりの論述には体験を通した深い思考が含まれているのである。
 著者は言う。"マルクスのこの宗教批判を認めない牧師や神学者がいるとするならば、三つの可能性がある。一番目の可能性は、うんと不勉強な神学者で、まるでこのへんのことを知らない。二番目は、ファンダメンタリズム、すなわちキリスト教根本主義(原理主義)の牧師や神学者。三番目がすごく複雑になるけども、たしかに宗教というのは、人間が自分の願望を投影した幻影であり、幻像である。宗教は人間のつくるものだ。そのことを認めた上で、しかし人間というのは、こういう幻影なり幻像なりをつくらざるを得ない、そんな存在なんだ。そんな理解をしている人"。この三番目の例としてカール・バルトを挙げ、多くを語っているが、著者自身の立場も、この『ゼロからわかるキリスト教』の骨子もこれに近いと見てよいだろう。
 第二章は"神の声が聴こえる時"と題して、宗教の本質は直感と感情であり、"神の居場所は心の中である"という立場から、神の声を聞き分けた実例をあれこれと多彩に論じている。これに立てばヒューマニズムも神を人間に代えたものにすぎないと著者の思案は大きく広がっていく。
 私はと言えば、信仰を持たない身ではあるが、この世のどこかになにか絶対的なものがあって、それによって人間が生かされ、社会が営まれているような、そんな気分に陥るときがある。それを神というなら無神論者ではないのかもしれない。
 本書の中に展開される思考は、ときに飛躍があってわかりにくいところもあるが、合理の人である著者には筋道があるにちがいない。薄紙をはぐようにそれを入念に追い求め、それとはべつに、いかにも教室の講義らしい雑談が......マルクスの収入源とかバルトの愛人のこととかが語られ、これが滅法おもしろい。多彩なエピソードを楽しみながら、たまには神について思いを馳せてみるのもよいではないか。私はそのように読んだ。巻末に「ヘーゲル法哲学批判序説」が置いてあるのは、ありがたくも本書にふさわしいサービスである。

 阿刀田高 (あとうだ・たかし 作家)


西欧キリスト教文明とイスラムが対峙するとき

 日本語の言論空間で、信仰と知性・理性とを結びつけ、情況を深く掘り下げて語る著者は、佐藤優氏が現れるまで、しばらく存在しなかった。『ゼロからわかるキリスト教』はそんな佐藤氏の特質がいかんなく発揮された好著である。
 実際に聴衆を前にした講座がもとになっていて、話し言葉でわかりやすい。けれども、なかみは手強い。
 タイトルは、キリスト教の入門書のようである。実際に論じられているのは、資本主義の行き詰まりを挟んで、キリスト教文明とイスラム文明が角逐する、その根本構造の解明である。きわめて現代的なテーマだと言えよう。
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 今回取り上げるのは、マルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」。有名な「宗教は民衆のアヘンである」の一句を含む、若いマルクスの著した短い論文だ。タイトルは法哲学批判だが、実は、宗教(キリスト教)批判になっている。
 この論文を取り上げるのは、奇妙なことだ。なぜなら佐藤氏自身が、この論文の論理は、《最終的には破綻している》と言うのだから。にもかかわらず、この論文には現代的な意味があるのだ。どういうことか。
 この論文のマルクスは、フォイエルバッハの批判(『キリスト教の本質』)を越えるものではない、と佐藤氏は言う。疎外論にもとづき、神を、人間の本質が投影されたものだとする。そんなものを崇める代わりに、人間に回帰せよ。「宗教の批判は、人間が人間にとって最高の存在である、という説に尽きる。」では人間とはなにか。マルクスはそれに定義を与えることができず、同語反復にとどまっている。
 この短い論文を少しずつ読んでは、西欧キリスト教文明の観念の発展を、神学を補助線に、丁寧に解説していく。
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 カトリックとプロテスタントの信仰分裂。プロテスタントにとって救済は、不確かになった。プロテスタントの信仰は一九世紀、啓蒙思想の影響のなかで大きく変質する。神の居場所は天でなく心のなかに、イエス・キリストは神の子でなく史的イエスに、パウロは《キリストの教えをねじ曲げたイカサマ師》に、なった。マルクスの宗教批判も、こうした流れのなかで、よりよく理解できる。
 キリスト教は原罪の観念があるので、人間を肯定することに歯止めがかかる。が、ナショナリズムにはそれがない、と佐藤氏は指摘する。これを参考にすると、イスラム教とマルクス主義は、理性主義で、普遍主義で、地上に理想秩序を実現しようとする点で、よく似ている。どちらも西欧資本主義に対抗しようとしたが、マルクス主義は先につぶれてしまった。イスラム教は、近代以前の宗教的ロジックを含むので、かえってしぶとく残っている。
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 本書でもうひとつ興味ぶかいのは、ハーバーマスの『自然主義と宗教の間』も取り上げている点である。佐藤氏によればこれは、西欧キリスト教文明が、イスラムの挑戦を組み止め、手なずけ、生き残ろうとする戦略をのべた、したたかな哲学的対話である。佐藤氏のこの読解は、説得力がある。
 ハーバーマスの戦略に、未来はあるのか。
 マルクス主義は、理性主義の流れを汲むが、神の代わりに人間を「最高の存在」とするドグマを人びとに押しつけた。よって宗教を敵視し、資本主義と対峙し、自壊した。ハーバーマスは理性主義で、啓蒙思想の現代版で、ドグマによらず自然科学や資本主義と両立し、イスラムと対峙する。自己正当化をはかろうとする、西欧的価値観そのものである。
 西欧キリスト教文明とイスラムとが、緊張をはらんで対峙するとき、インドは、中国は日本は、第三世界は、ぼんやり傍観者を決め込んでいればよいのか。
 佐藤氏は、妖怪ウォッチを例にあげつつ、異形のモンスターとみえる宗教や異文化との共存の努力が大切だとする。理性によっては理解不能としかみえない知のシステムも、当事者にとっては生きられた現実で、意味ある世界なのだ。
 西欧文明の掲げる理性が普遍的でひとつしかないのなら、イスラムも、インドも中国も日本も、理性の用法が完全でないことになる。西欧文明の掲げる理性がローカルな、キリスト教の個性を帯びているなら、イスラムのような他者と遭遇した西欧文明は変化しなければならない。どちらなのか。ハーバーマスの鼻はへし折られるのか。これは見物である。

 橋爪大三郎 (はしづめ・だいさぶろう 社会学者)

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