書評

2016年12月号掲載

二重焼付けの擁護

――四方田犬彦『署名はカリガリ 大正時代の映画と前衛主義』

木下千花

対象書籍名:『署名はカリガリ 大正時代の映画と前衛主義』
対象著者:四方田犬彦
対象書籍ISBN:978-4-10-367109-1

「二重焼付けの生と死」と題された短いエッセイのなかで、フランスの映画批評家アンドレ・バザンは、二重焼付けという映画技法を、まあ大まかに言えば批判している(小海永二訳『映画とは何かⅡ映像言語の問題』)。二重焼付け(スーパーインポジション)とは、その名のとおり、二つの映像を現像時の焼付け、あるいはキャメラ内での二重露光によって重ねる技法であり、映画黎明期のジョルジュ・メリエスの作品以来CGが確立するまで、幽霊のような超常現象、夢や幻覚を表象するトリックとして代表的であった。バザンの批評自体は読み直してみるとなかなか複雑で、奥行きのある映画空間における幽霊の表象の問題を論じてスリリングだ。しかし、一方で、ここでバザンはメリエス=幻想、リュミエール兄弟=リアリズムという二項対立を作り、二重焼付けを前者の代表格としている。それ以来なのかどうか確信はないが、二重焼付けはシネフィル的批評や研究のなかで軽んじられ、ときには愚弄されてきた。いかにもサイレント映画的な視覚効果で時代遅れだ、アレゴリー的で重苦しい、などなど。四方田犬彦の『署名はカリガリ』は、このように抑圧されてきた「二重焼付け的なるもの」の擁護であり、その大正期日本における興隆の顕彰にほかならない。
 そのタイトルとは裏腹に、『署名はカリガリ』はロベルト・ヴィーネ『カリガリ博士』(一九一九年)に代表されるいわゆるドイツ表現主義の日本映画への影響を記述・分析するだけの書物ではない。もちろん、四方田も詳細に跡づけているように、『カリガリ博士』は一九二一年五月に日本で公開され、本書の第一章が取りあげる谷崎潤一郎、第二章の作家・大泉黒石と若き映画監督・溝口健二、第三章が論じる『狂つた一頁』(一九二六年)を撮った衣笠貞之助にも大きなインパクトを与えている。だが、谷崎についての章の中心となるのは『カリガリ博士』公開以前の一九一八年に書かれた短編『人面疽』なのだから、ここで問題になっているのは、ある特定の様式の影響ではなく、映画という最新のミディアムを触媒として大正時代の日本に確かに湧き上がっていた前衛的熱情だったと言える。
 四方田の『人面疽』論は無茶苦茶面白い。『リング』(中田秀夫監督、高橋洋脚本、一九九八年)に着想を与えたことでも知られるこの小説は、ハリウッドから帰朝したばかりの日本人女優・百合枝が撮影した覚えのない映画が場末の館にかかっているという噂から始まる。この映画が語るのは、白人の富豪と結婚するため密航する花魁の膝に、彼女に裏切られ殺された男が「人面疽」として取り憑くという物語だ。作られたはずのない起源なき映画は次々と複製されて増殖し、観者に呪いを伝播してゆくだろう。ここで四方田は、「人面疽」が二重焼付けされているのではないかという可能性(物語上はすぐに否定される)に着目し、「人面疽」と女性器の類似を指摘してその「不気味さ」を暴き、さらに、光とフィルムの接触によって像を結び、それがシミュラークルとして増殖してゆく映画というミディアム自体の換喩として捉えるのだ。この連想力と構想力、残酷とグロテスク、女性嫌い(ミソジニー)の誘惑。前衛を語る四方田の批評的営為自体がブルジョワ的伝統を攻撃する前衛の身振りに重なり、その結果立ち現れる圧倒的なイメージの連鎖は、まさに「二重焼付け」である。
 溝口の『血と霊』のプリントは失われ、佐相勉らによって文字資料やスチール写真をもとにした復元の試みがなされている。四方田もここに参与し、ロシア人の父と日本人の母の間に生まれた黒石による同名の原作の重層的な語りを分析し、長崎の中華街を舞台にした禍々しい血の呪いの物語を甦らせる。映画『血と霊』に二重焼付けが使われていたかどうか確かめる術はない。しかし、ここで四方田が召喚しているのは、女性をリアルに描いた日本的な名匠だとかいう生ぬるい言葉に埋もれてきた溝口健二の根底にある「二重焼付け」的なるもの―アレゴリーと戯画性への傾き―である。

 (きのした・ちか 映画学)

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