書評
2016年12月号掲載
おぼえておくにはおそろしいこと
――ブライアン・エヴンソン『ウインドアイ』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『ウインドアイ』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ブライアン・エヴンソン著/柴田元幸訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590132-5
いろいろな話がある。25篇も収録されているのだから、それで当然だ。妹をなくした(亡くした、ではない)少年の話があり、雪山での遭難中に友人から不吉な物語を聞かされ続ける男の話があり、血に飢えた一頭の馬に取り憑かれた男の話があり、行方不明になった盲目の妹を探す男の話があり(消えた妹はこれで二人目だ)、独自の方法で世界を理解しようとする人工知能の血塗られた話があり、スレイデン・スーツと呼ばれる潜水用スーツを通ってこの世界から逃れようとする男たちの話があり、音が実際にそれが発された時点よりずれて聞こえるようになった女の話があり、AC/DCのボン・スコットの死と信仰についての調査と考察があり、肉体が再生され何度でも生きられる社会で謎の死に見舞われ続ける男の話があり、社会のためにコールドスリープに入るよう執拗に求められる男の話があり、他人の病を肩代わりしたいという願いを叶えてくれる奇妙なあばら家の話がある。あるものはゴーストストーリーのような味わいがあり、あるものは寓話のふりをしてはじまり、あるものはSFで、あるものは認識と言葉のあいだにある落とし穴の探査であり、そして、すべてはただ単にとんでもなくひどい話である。
「トンネル」という短篇は、こんなふうに終わる。
「自分たちに何が起きているのか、彼らの誰一人ちゃんとわかっていないように思えた。誰一人理解できず、なのに誰一人やめられなかった。
やがて、全員にとってさらにもっとひどいことになった。」
うん、と思わずうなずいてしまう。「トンネル」は本書の半ばあたりに位置している。はじめから順番に読んでいれば、「トンネル」を通り過ぎるころには、悲惨な事態には慣れてしまっている。そのくせ、次はどんなひどいことが起こるんだろうと心を冷やし、心が冷えるごとにその直前まで自分の心がいかにあたたかだったかを思い知ることになる。
ところが、これらの25篇の共通点は、とんでもなくひどいというだけではないのだ。どれもが同じ結論をまっすぐに指差しているのである。エヴンソンの小説には、どうしてこのようなことが起こったのか、これが起こったことによって何がもたらされるか、ということは書かれない。つまり、とんでもなくひどいことが起こるのに理由はないし意味もない、私たちが生きているこの世界はそういうところなのだ、そういうものなのだ、という結論だ。この本は、手を替え品を替え、そういうことを辛抱強く、懇切丁寧に説明している。ともすれば希望を抱き、救いを求めがちな私たちにでもしっかりと理解できるように、とても親切に。
しかしふと、彼らがこんなひどい目に遭っているのは、何らかの罠にかけられたせいではないか、という気がすることもある。原因は明らかだ。ときどき、主人公たちに絶対的な権威をもって接触する、監視者のようなものの姿がちらつくからだ。それは、はっきりと書かれているものとしては、「モルダウ事件」の「我々」と称する「組織」、「彼ら」に出てくるまさに「彼ら」、「酸素規約」でも「彼ら」で、「溺死親和性種」では「対話者」と呼ばれる存在だ。主人公たちは、それらの存在に対し従順であるように見せかけて出し抜こうとしたり、真っ向から反抗したりする。
監視者たちはその存在が明示されるときには、一見人間のように描かれている。けれど、こういったある意味典型的な監視者の像を結ばずにほのめかされる監視者たちの気配を重ね合わせると、私にはそれらはどうも人とは思われない。私は、それらは、本来なら対話できないはずの世界の仕組みなのではないかと勘繰っている。人は、人のつくった規則や秩序にのっとって生きていると考えたいところだが、実際にはそうでもない。人がつくった規則も秩序も、理解の及ばない自然世界の規則や秩序の支配下にあって、ときにはすんなり通り、同じものがときにはめちゃくちゃに引き裂かれるのだ。
だから、そう、とんでもなくひどいことは起こる。そのことに理由はないし、意味もない。罠なんかはじめからどこにもない。でも、それをこんなに噛んで含めるように知らせてもらっても、もうわかった、もういい、と思っても、きっとすぐに忘れてしまうだろう。常におぼえておくにはあまりにもおそろしいことだから。だからこそ本書は目に入るところに置いておいたほうがいいし、今この瞬間もアメリカのどこかでエヴンソンは親切心を発揮してこつこつと小説を書いているべきだし、それが適切な時期にまたこの手に届くべきだと思う。
(ふじの・かおり 作家)