書評

2016年12月号掲載

人の命は地球より重い、としても

里見清一『医学の勝利が国家を滅ぼす』

里見清一

対象書籍名:『医学の勝利が国家を滅ぼす』
対象著者:里見清一
対象書籍ISBN:978-4-10-610694-1

 スペインの画家、ゴヤの絵に「わが子を喰らうサトゥルヌス」というのがある。「世界で最も恐ろしい絵」なのだそうだ。私は小学生の時に偶然百科事典でこれを見てしまって慄然とし、その後その巻を開くことができなくなり、しばらく調べものに不自由を生じた覚えがある。
 サトゥルヌスが何者か、はさておき、ゴヤの絵では両眼を見開いた大男が、「わが子」を頭からかじっている様子が描かれている。すでに頭部は食いちぎられている。私は今、この絵を見ると、小学生の時と別種の恐怖に襲われる。この「サトゥルヌス」は、我々自身の姿ではないのか。
 医学の進歩は目覚ましい。不治の病気の代表格である進行癌に対しても、有効な薬剤がいくつも開発され、たとえば転移を伴う大腸癌の予後は、以前に比べて2倍に延長したとされる。ただし、その治療にかかるコストは340倍になったそうだ。効果2倍で、コスト340倍。これは進歩かというと、進歩であろう。問題は、持続可能性をもつ進歩なのか、ということである。
 癌に対する薬剤は、従来の抗癌剤に加えて分子標的薬剤が、さらに免疫療法剤が登場した。本邦で開発された免疫療法剤ニボルマブは、今まではなしえなかった「治癒」の可能性まで示唆されている。ならば、少々コストがかかろうと、「人命は地球より重い」のだからまずは進歩を称え、さらなる発展を目指せばよいのではなかろうか?
 だがしかし、ニボルマブは、1年間のコストが3500万円にも及ぶ。対象となる癌患者の数を単純に掛け合わせると数千億から兆の単位になりかねない。こういう薬は次々に出て来るが、有難いことに日本の医療制度ではほとんどが公費負担になる。だからみんなが使える。しかし保険財政が今後ともそれをすべて賄うことなどできないのは自明である。すべては先送りされ、次世代にツケ回しされる。そしていずれ破綻する。これは、「わが子を喰らう」のと、どこが違うというのだろう?
 ニボルマブの薬価を「特例的」に下げるという議論が盛んにされているようだが、ピンボケも甚だしい。問題はこの薬一つではない。医療コスト激増の根本的な原因は、医療の高度化(医学の進歩)と、人口の高齢化なのである。誰のせいでもないし、誰にも止められない。そもそも何千万円もかけて、そしてその負担を子や孫に押し付けて、我々はいつまで生きようというのか? そこまでして生きるのは、何のためなのか? これが本書のテーマである。
 そんなのは医者が考えることではない、と言われる。医者は眼前の患者に集中していればいいし、そうすべきだ。医学の勝利だ。興奮するじゃないか。手放しに喜ぼう......果してそうなのか?
 ゴヤの「サトゥルヌス」には、製作当初、股間に勃起したペニスが描かれていたそうだ。

 (さとみ・せいいち 臨床医)

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