書評
2017年1月号掲載
ジプシーの大家族と一人の「よそ者」
――アリス・フェルネ『本を読むひと』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『本を読むひと』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:アリス・フェルネ著/デュランテクスト冽子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590133-2
追いに追われて、ついにある郊外の空き地に陣取った、アンジェリーヌばあさんを中心としたジプシーの大家族。五人の息子と四人の嫁と八人の孫とがいる。キャンピングカーは風雨から彼らを守ってくれるが、水道も電気もない。ばあさんは臭い匂いを放つゴミだらけの焚火の前に日がな一日座り、息子らはたまに盗みを働くほかには暇を持て余し、嫁らは湯沸かし、洗濯、料理と忙しく働いた上に、運び込まれた病院で粗末に扱われながら出産したり、自分のベッドで血まみれになりながら流産したり、愛されたり殴られたりしている。子供らは昼は玩具ひとつないまま水溜まりだらけの空き地で遊び回り、夜はぎゅうぎゅう詰めになって眠りを貪る。そんな中に「よそ者」である図書館員のフランス女性エステールが、持ち前の慎み深さと勇気で入りこみ、毎週、子供らに本を読んでやるようになる。最初はエステールに猜疑心を抱いていた大人もやがて彼女に心を開くようになり......。
翻訳本を読む大きな楽しみは、寝そべったまま、知らない文化を生きることができることにある。フランス語の翻訳を読めば、フランスの理解が少しは深まる。だが、アリス・フェルネの『本を読むひと』を読むと、フランスの理解が深まるだけでない。フランスに何百年も住み着きながらも、フランス人には非ざるジプシーという流浪民族についての理解も深まり、同時に、そのジプシーにフランスがどう関わるかを通じて、フランスについての理解もより深まる。
それにしても、フランスの中産階級の一女性作家がよくもここまでジプシーたちの生活を、その細部に至るまで生き生きと描けたものだと、感嘆する。そこに描かれた日常がどれぐらい正確なものかは私には分かりえない。だが、読んでいて、まさにこんな風に生きているのだろうと納得できる。それは、救いのない貧困が少しも美化されていないこと、それと同時に、その貧困を生きる人たちが、一人一人ちがう顔をもった人間として描かれていることに帰するであろう。
野営生活に伴うのは、汗や煙や糞尿の匂い、凍てつく寒さ、早すぎる加齢に加え、習い性となった怠惰、思考の停止、無意味な暴力等である。羨むべきことは何もない。それでいて、そんな生活を送る彼らのうち、ある男は純粋に恋をし、ある男は女の尻を追いかけ、ある女は頭が悪く、ある女は優しく、そして老女はそれをすべて見ている。彼らは丁寧に描き分けられることによって、あたかも知人ででもあるかのように読者の前に立ち現れる。私たちと同じ人間が、歴史の流れによって、このような生活をしていることの不公平さ、それと同時に、このような生活をしながらも、私たちと同様に産声を上げて生まれ、熱い肉体で若さを謳歌し、そして枯れて死んでいくという、人間の条件の絶対的な公平さも立ち現れる。
勿論『本を読むひと』のような主題を扱った小説は批判に晒されうる。「よそ者」のエステールがジプシーの子供らに本を読み聞かせ、最終的には小学校に通わせることにどんな意味があるのか。それは、たんにフランスにとって異質な存在を消滅させ、フランスと同化させ、近代という枠組みの中に回収してしまうだけではないかと。『本を読むひと』の素晴らしさは、本を手に取ってみれば、このような批判を撥ねつける信念が、静かに、力強く脈づいていることにある。
人には本が必要だという信念である。
著者のアリス・フェルネは、そのような信念が傍から見てナイーヴ、あるいは、僭越なものに映りうるのを承知している。それゆえに、フェルネは、エステールをふつうの市民生活を送っている人間でありながらも、特異な人物として設定している。エステールは「同情心からジプシーに近づこうとしたのではなかった」。彼女は「人生には本が必要だし、生きているだけでは十分じゃないと思うから」というその信念に突き動かされている。狂信者だともいえよう。だが宣教師は考えを植えつけようとするが、彼女は読書という行為を通じて、人が考えることができるようにしたいのである。「人間は考える葦である」。アンジェリーヌばあさんは彼女の特異さを敏感に嗅ぎつけ、死ぬ間際には自分の娘として扱う。「人に尽すってことも病気の一種だ」という忠告も残す。
翻訳には躍動感があり、地の文も会話もぴちぴちと跳ねるようである。この小説家が初めて日本で紹介されるのに、ふさわしい小説であり、ふさわしい翻訳である。
(みずむら・みなえ 作家)