書評
2017年1月号掲載
今宵も呑兵衛は太田本を手に日本文化を守る
――太田和彦『太田和彦の居酒屋味酒覧〈決定版〉精選204』
対象書籍名:『太田和彦の居酒屋味酒覧〈決定版〉精選204』
対象著者:太田和彦
対象書籍ISBN:978-4-10-415809-6
出張前には太田和彦さんの本書を開くのが習わしになっている。そして太田流の書きっぷりに誘われいそいそとした感情をともなって店へと向う。その魅力は料理や酒だけの世界ではない。たとえば旭川の「独酌三四郎」。雪日某日。カウンターに座り、ニシン漬けを熱燗で楽しんだことを思い出す。太田さんは書いている。「着物に、古風な長い白割烹着のおかみは、すらりとした涼しげな美人で、日本三大白割烹着おかみの一人に確実に指を折る」。なるほど、と納得した。この「日本三大白割烹着おかみ」にも『居酒屋味酒覧』の歴史があることはのちに明かす。
こんどの「決定版」204店で踏破したのは数えれば50店。いまだ太田学校「初級クラス」だろう。それでも発見はある。京都や大阪などいくつかの店には「渡る世間は鬼ばかり」と書いた色紙が飾ってあった。お名前どおりの角ばった特徴的なサインは俳優の角野卓造さんによるものだ。『味酒覧』の愛好者であることは、どこかでご本人が書かれていた。銀座の「佃㐂知」のカウンターで飲んでいるときだった。ひとり客が太田本を手にして日本酒を傾けていた。出張のたびに紹介された酒場を訪れるのが楽しみだという。出かけた店には赤ペンで印が付けられ、日付けも書いてあった。
世には凡百のグルメ本、酒場紹介本がある。居酒屋とは何か、と思う。近代の成果は理念としての自由・平等・進歩であるとともに、これまでにない物質的繁栄だ。渡辺京二さんによれば、近代とは「反人間的」である。たしかに日本全国どこに行っても「同じ看板」で冷凍保存された「同じ料理」のチェーン店が増えている。これが「繁栄」の果てだとすればいささか寂しい。私が若いころ小さな酒場の店主に教えられたことがある。「安い居酒屋に行くのを3回我慢して、ちゃんとした店に行くことだよ。そこにいる客の話を聞いているだけでも人生を豊かにする」。太田さんが紹介するのは、こうした個性あふれる酒場である。たとえば中野にある「らんまん」。魚の質はもちろん上々で、天然ウナギの大きさには驚かされる。淀川長治さんを思い出させる白髪の店主や大正11年建築の店は、それだけで日本文化を表わしている。そういえば太田和彦さんとの偶然の初対面はその近くにある「第二力酒蔵」でのことだった。午後2時開店で、祝日も営業しているからうれしい。
『居酒屋味酒覧』が改訂されるたびに、残念に思い、秘かにうれしくなることがある。呑兵衛の心理は、好きな酒場を教えたくなることもあれば、自分だけの行きつけにしておきたいこともあるからだ。たとえば「魚菜」。札幌に行くとまずここに顔を出す。季節に合わせて繊細に揃えられた「酒菜」を頼み、サッポロビールのクラシック、次に珍しい日本酒を注文する。店を出て11月4日に96歳で亡くなった山崎達郎さんの「BAR やまざき」でオリジナルカクテル「フライハイト」(自由)を口にするのがいつもの足取りだ。その「魚菜」(第二版で初出)は第三版から消えてしまった。別の店を紹介するためなのだろうが、残念かつ好ましい。「日本三大白割烹着おかみ」もそうだ。第二版で紹介された大阪の「わのつぎ」の女将(「有力優勝候補」とある)がその一人なのだが、いまでは掲載されていない。しかし太田さんの好みから外れたわけでないことは、最近出た『居酒屋歳時記』でも「三大白割烹着おかみ」として紹介されていることでも明らかだ。
太田さんの眼に入っていない名店は数知れずあることだろう。吉村昭さんが出張のとき、長年にわたって鍛えた臭覚で素敵な店を見つけたように、私たちも太田さんに習って自分好みの名店を探したいものだ。いつか太田さんにお知らせしようと思いつつ黙ってきた店がある。たとえば名古屋の「ままや」。女優の南果歩さんに教えられた居酒屋で、料理は常時80種類はある。さらに銀座二丁目の「磯一」。頑固親父の仕入れは抜群だった。この冊子が書店に並ぶころには41年の歴史に幕を閉じる。個性ある名店が店主の高齢化とともに消えていく。日本文化の貴重な伝統を何とか守りたい。さあ、『居酒屋味酒覧』を手に今宵も街へ出よう。
(ありた・よしふ 参議院議員・ジャーナリスト)