対談・鼎談
2017年2月号掲載
「町田市民文学館ことばらんど」開館10周年記念 座談会
文士の子ども被害者の会 前編
遠藤周作長男 遠藤龍之介×阿川弘之長女 阿川佐和子×矢代静一長女 矢代朝子×北杜夫長女 斎藤由香
「あの父」の子にうまれたヨロコビとカナシミの幾歳月。ナミダせずには読めない告白の連続です(少しだけ嘘)。
――町田市にお住まいだった遠藤周作さんが昨年(二〇一六年)没後二十年を迎えられたこともあり、本日の座談会を開くことになりました。まずみなさまのお父さまのお仕事をご紹介して頂きたいと存じます。遠藤龍之介さんからお願いいたします。
遠藤 父は昭和三十年代の後半に結核を患って長く入院しまして、退院してからは空気のいい所に住もうと町田へ引越して参りました。家を建てた時、たいへん嬉しそうだったのを覚えています。
ろくでもない思い出話はしょっちゅうしているのですが、父親の仕事について語るのは初めてだと思います。一九五五年に「白い人」という作品で芥川賞を受賞しまして、代表作を私が言うのもヘンなものかもしれませんが、今度ハリウッドで映画化された『沈黙』という小説がございます。『タクシードライバー』とか『ギャング・オブ・ニューヨーク』のマーティン・スコセッシ監督が撮りまして、私もラッシュは観ましたが、非常に出来がいいので、ぜひ映画館に行ってご覧になって下さいませ。あとは最後の純文学長篇になった『深い河』、これは私にとってもいろいろ思い出深い作品です。
阿川 阿川佐和子と申します。阿川弘之の長女です。父は一九二〇年、大正九年の広島の生まれで、高校時代から文学に興味を持って、とりわけ志賀直哉先生の文章を一途に信奉していました。大学時代に志賀先生が公開座談会にいらした時、ほかの作家の方々もいらっしゃったのに、志賀先生にしか質問しないという嫌味な学生で、それも何回も質問したというので、後年志賀先生に「君か、あのしつこかったのは!」と言われたそうです。
私は父の作品のことをよく知りません。「どうしておまえは俺の本を読まないのか」って言われてきまして、実際、唯一ちゃんと読んだと言えるのは『きかんしゃ やえもん』(会場笑)。
これは父のせいでもありまして、私小説的なものもずいぶん書いているのですが、そこに出てくる娘というのがやたらに泣き虫で、癇が強くて、性格が悪いので、二、三ページ読んだら嫌になっちゃうわけです。ですので、ほとんどわかってないまま申し上げますと、父の代表作としては海軍提督三部作というか、『山本五十六』、『井上成美』......、えーと、ほら出てこない(会場笑)、そう、『米内光政』という作品があります。
あまり文学賞には恵まれていなくて、それこそ芥川賞も直木賞も貰っていませんし、他の賞もあまり貰っておりません。「あんなもの貰ったって」と言いながら、娘の目から見ると、ちょっとひがんでるのかなーという気がしなくもないような。
あと、私が中学生の頃でしたか、本屋さんに行きますと、文庫本の棚に、ここは北杜夫作品とか、ここは遠藤周作作品といった名前入りのプレートが差してあったものですが、阿川弘之というのはありませんでした。それをうちに帰って報告しますと、すごく不愉快そうな顔をしたのも覚えております。ひがみながら、一昨年の夏に九十四歳で立派に老衰死いたしました。
矢代 矢代静一の長女です。他の先生方は小説家ですので、みなさん馴染みがあると思いますが、私の父は戯曲を書く劇作家でございます。父は昭和二年に銀座の商家で生まれまして、子どもの頃から歌舞伎も新派も新劇もと芝居に親しんでおりましたので、自然にそっちの世界に興味を持ったんだと思います。戦争が激しくなって、どうせ死ぬなら、自分の一番興味があることをしたいと、俳優座の研究生というか、千田是也先生の書生みたいなことで、演劇の道に入ったようです。幸い、父は死なずに済んだのですが、その後、文学的な方向で演劇をやりたいと、加藤道夫さん、芥川比呂志さんに誘われて、岸田國士先生などが作った文学座に移りました。そこで三島由紀夫さんなどとも交流しながら、劇作家兼演出家として仕事をしていったわけです。
父は早稲田の仏文でしたので、はじめはフランス的な芝居を書いていたんですけども、四十代から、やはり四代続いた江戸っ子ということもあって、浮世絵師の世界は皮膚感覚でわかったのでしょう、『写楽考』『北斎漫画』『淫乱斎英泉』という浮世絵師三部作を書くことになりました。
みなさんが戯曲を本屋さんで買ってお読みになることはまずないと思います。父の作品がお目にとまるのは、芝居が上演されている時です。父が亡くなってもう十九年になりますが、細く長く父の作品を上演して下さる劇団、プロデューサー、俳優の方がいらっしゃるのはありがたいことだと思います。
斎藤 北杜夫の娘の斎藤由香と申します。今、お三方のお話を聞きながら胸一杯になっておりました。父は毎年夏の軽井沢で遠藤先生、矢代先生と楽しく過ごさせて頂きましたし、また、阿川先生を崇拝しておりまして、晩年まで非常に親しい時間を持たせて頂きました。私達四人が集まるのは初めてで、このようにお話しできる機会が与えられたのは遠藤先生のおかげだと胸いっぱいです。
父は旧制松本高校に進学いたしまして、信州の山々や昆虫にすっかり魅せられて、昆虫学者になりたいという夢を抱いたのですが、それを父の父である斎藤茂吉に告げますと、「昆虫学者では食えない。絶対、医者になれ」という怒りの手紙が送られてきまして夢破れたわけです。東北大学医学部に進学して精神科医になり、ある時、水産庁の漁業調査船が船医を募集しているのを聞いて応募し、海外へ行った際、ドイツにいた母と知り合って結婚しました。母は医者夫人になったと思っていたら、途中から夫は作家になり、躁鬱病になり、夫婦別居もし、破産まですることになって、母は「詐欺に遭ったみたいね」と申しております(会場笑)。
父の代表作に『楡家の人びと』という作品があります。実にへんてこりんな人物ばかりが出てくる小説ですが、これは精神科医としての父の人間に対する愛情が現れているように思います。
父は長年、「ユーモア溢れる映画を作りたい。そのためには映画の製作費が何千万円も必要だ」と、製作費を捻出するために証券会社四社を相手に株の売買を繰り広げ、わが家はすっからかん。中学一年生の私のお年玉までもが生活費にあてられるという大変悲惨な生活になりました。それが、父が亡くなって六年目にして、昨年十一月に『ぼくのおじさん』という小説が東映で映画化されまして、やっとユーモア溢れる映画を作りたいという父の夢が実現したように感じております。
『ぼくのおじさん』を久しぶりに読み返しましたが、父が三十五歳まで結婚せず、慶應の医局に勤めてはいても無給でお金もなく、兄の斎藤茂太の家に居候して、甥っ子たちの漫画を奪い合うようにして読んでいたという自分をモデルにしたダメダメおじさんの物語です。これもやはり、父がそういうダメな人への深い愛情を持っていたのだろうなと思えました。
本日は佐和子さんや龍之介さん、朝子さんのご家庭の大変さを伺って、「うちだけが大変じゃなかったのだ」と思いたいです(会場笑)。
気を遣う十歳児と恋を邪魔する父親
――作家としてのお父さまの姿を語って頂きましたが、この先はご家庭でのお父さまのお姿を伺いたいと思います。みなさまにはお写真もお借りしました。まずは遠藤さん、これはご自宅周辺のお写真でしょうか(上)。
遠藤 ......あ、はい。あんまり可愛くて見入っちゃいました(会場笑)。これはスナップではなくて、雑誌用にプロのカメラマンが撮ったものです。実際にこんなふうに遊んでいたわけではございません。遠藤周作が千葉周作、私が龍之介だから机龍之助ということで、剣豪対決といったコンセプトだったと思います。個人的には、父親のこの偽善的な笑顔が怖いですね。普段、こんな顔はいたしません。
阿川 龍之介さんは、遠藤さんが芥川賞をお取りになったから、芥川龍之介から命名されたと伺ったことがありますが。
遠藤 そうなんですよ。他の賞を取って、遠藤三十五とか遠藤乱歩とかにならなくてよかったと思います(会場笑)。さっき申し上げたように五五年に芥川賞を取りまして、翌年に私が生まれましたので、まだ興奮冷めやらぬ時期だったのだろうなと想像いたします。
阿川 その後、芥川龍之介さんのご子息である比呂志さんと遠藤さんが飲んでらっしゃった時の話がございますね。
遠藤 芥川比呂志さんは名優で、劇団雲の名演出家でもいらしたんですが、わが家に来られて、父と酒を飲んでいたんです。すると急に父が私を呼びつけて、「龍之介は本当にダメだ。龍之介はなってない、バカモノだ!」。だんだん芥川さんが嫌な顔に......(会場笑)。最後は本当にもう苦虫を噛み潰したような顔になった芥川さんをいまだに忘れられません。
矢代 芥川比呂志さんはずっと私の父の兄貴分でした。日本で最初で最後の素晴らしいハムレット役者だと言われたくらいの名優です。そのハムレットのような芥川さんが苦虫を噛み潰したところは見てみたかったですねえ。
遠藤 芥川さんはすごく痩せてらっしゃったでしょう? 骨と皮みたいに。
矢代 ええ、結核をなさったんですよね。
遠藤 そのくせ喧嘩早かった。これは聞いた話ですが、銀座のお寿司屋さんで隣席の外人二人組がちょっと騒いでいたので、芥川さんが「うるさい! 表へ出ろ!」と言ったら、相手はプロレスラーのオルテガだった(会場笑)。力道山時代の有名なレスラーですね。オルテガは表へ出たんだけど、喧嘩を売ってきた相手があまりにもちっぽけな痩せっぽちなんで、思わずニコニコしたら、芥川さんがおもむろにオルテガをつねった(会場笑)。
阿川 遠藤さんはいろいろ多趣味でしたよね。
遠藤 好奇心が強くて飽きっぽいという非常に困った肉親でして、一時は手品に凝って習いに行ってました。で、家に帰ってくると、その日教わった手品を家族に見せるわけです。でも、ぶきっちょなんで、袖のへんからタネが見えてたりするんですが、気を遣って「え、どうして?」なんてビックリしてみせて。私も十歳ぐらいでしたから、気を遣おうと思ったらけっこう気を遣えたんですね。
阿川 本当にいい子よねえ。
遠藤 半年ぐらいしたら手品に飽きて、今度は催眠術に凝りました。これも習っては帰ってきてやるんです。こっちはかかったフリをしないといけない。すると突然、「おまえの体は今、鉄のように硬くなって、何も寄せつけない」。椅子に寝かされ、上から鉄アレイをドスンと落とされて、本当に痛いんですけど、鉄のように硬くなってるんだから声も出せない。辛かったです(会場笑)。
阿川 いい子過ぎる。怪我しなかった?
遠藤 腹筋が捻挫みたいになって痛むので、病院へ行ったんですが、「こんなとこ、何をなさったんです?」(会場笑)。
阿川 遠藤家のおかしな話はきりがないんですけど、私が大好きな話を披露して頂くと、龍之介さんがお年頃になってガールフレンドができて、彼女から電話がかかってきますよね。それをお父さまがとると大変だという......。
遠藤 今は携帯電話という便利なものがありますが、当時は家の黒電話にかかってくるわけです。悪いことに父は作家ですから、いつも家にいるんですよ。それで、例えば「鈴木と申しますが、龍之介さんいらっしゃいますか」なんて鈴の鳴るようなかわいい声で電話があると、「ああ、鈴木さん、息子がいつもお世話になってます。鈴木さんはアレですね、先週末、息子と箱根へ旅行に行かれたお嬢さんですよね?」。本当に困りました。
阿川 そのあと、彼女とはどうなるの?
遠藤 私は何も知らないまま、大学で会うと機嫌が悪いわけですよ。「どうしたの?」「お父さまに聞いたわよ。自分の胸に手をあててよく考えて」。胸に手をあてても何も聞こえない(会場笑)。本当に迷惑しました。別な時は、受話器の口を押さえずに、あたかも向うにいる私と話しているフリをして、「居留守を使ってくれ? 俺はいやだぞ。......本当にいいのか? しょうがないなあ......お待たせしました、龍之介はいないようです」。これもたいへん問題が起きまして、「お父さん、そういうことはやめて下さい」と抗議しました。そしたら「おまえはマルセル・プルーストの小説を読んだことがないか。本当の愛というのは障害を越えてこそ輝くんだ」。知らないよ、そんなこと(会場笑)。
金貨でじゃらじゃら遊ぶ
阿川 遠藤さんは母校の慶應がお好きでしたよね。「三田文学」の編集長もなさったから、そっち関係のお知合いも多かったし、龍之介さんも幼稚舎から慶應に通って生粋の慶應ボーイでした。片や阿川家は、子どもはみんな区立小学校で当り前だったんですが、弟がちょうど小学校へ上がる時に引越しをしたら、そこが新興住宅地すぎて、まだ小学校がなかったんですね。たまたま慶應の幼稚舎を受けたら入っちゃって、それから兄も慶應高校に受かって、私も大学から慶應に入って、だんだん慶應人口が増えていったんです。そしたら遠藤さんが大変喜んで下さって、うちへいらして、「阿川、よかったなあ。おまえの家もやっとハイソサエテーの仲間入りや」(会場笑)。
遠藤 その話、父から聞きました。大学生になられた佐和子さんと久しぶりにお会いして、父が「しばらく見んうちにきれいになったなあ。三日見ぬ間の桜やな」と言ったら、阿川先生から「遠藤、その表現は間違っている。それはよかったものがたちまち悪くなった時に使うんだ」と怒られて、へこんで帰ってきました。
阿川 別の時かな、遠藤さんが私を褒めて下さるおつもりで「トンビがナスを産んだなあ」と仰ったら、父が「そんな言葉はない」、母が「どうせ、私はトンビですよ」(会場笑)。でも、母は遠藤さんに優しくして頂いて、ずっと感謝しております。母が腰を患った時、父は「おまえ、大丈夫か」とは言いながら、すぐ「メシの支度はまだか。ツマミはもっとないのか」。そんな母に遠藤さんはたびたび電話を下さって、「奥さん、腰痛いやろなあ。あれは血ィが出ないから、みんなに同情されにくいやろけど、つらいやろなあ」と何べんも仰ってくれて、母は涙が流れるほど嬉しかったと。で、「ああ、遠藤さんの妻だったらよかった」(会場笑)。
斎藤 佐和子さんがかわいいのは小さい頃から有名で、父は何かの時、「佐和子ちゃんはこんなにきれいなんだから、将来はデブになる」とか、変な魔法をかけたんですよね。
阿川 それ、美談にし過ぎてます。それこそ夏の軽井沢に文士の方々、遠藤さんも矢代さんも北さんも滞在して、遊んでるのか執筆してるのかって生活をなさっている頃、父も真似たいと思ったらしくて、私が小学一年ぐらいの時、初めて軽井沢で長期滞在用の別荘を借りたんです。
そこへ北さんとか、まだ中央公論社にいらした宮脇俊三さんとかが遊びにいらして、お酒飲んだりお食事を召し上がったりするのを私は母にくっついて見てたんですよ。そしたら、遠くの椅子に座った北杜夫さんという方らしいおじさまが、「僕はナントカなのですがァ、でもカントカでもありましてェ」みたいにスローモーな喋り方をなさってて、子どもの耳にとても不思議に聞こえたんですね。
うちの父は広島に帰ると広島弁になり、志賀家へ行くと急に学習院言葉になり、祖母が京都ですから、関西の人相手だと関西弁になったりして、そんなイントネーションの違いを当時の私はすごく面白がっていたんです。それで、この奇妙な喋り方をするおじさんは一体どこの人だろうと思って、「あの人、何弁?」って母に訊くと、それが北さんにも聞こえたらしくて、「何? ずいぶん失礼な子だ。大人に向かって『この人は何弁?』とは何だ。よし、仕返しに呪いをかけてやる。この子は大きくなったら、デブデブのデブになるぞ」(会場笑)。この光景ははっきり覚えています。怖くはなかったけど、私は呪いをかけられたんだと思っていたら、中学、高校と成長するにつれて本当にブクブク太り始めて、「ああっ、北さんの呪いのせいだ」とずっと泣いていました。かわいかったからじゃないの、私が無作法だった仕返しなんです。
でも私、ブクブクの高校の時かな、父と北家に伺ったら、ニコニコしたかわいい女の子が出てきて、「パパ、パパ、阿川先生が見えたわよ。ちょっとパパ!」って北さんを呼んでくれた。それが由香ちゃんとの初対面だったと思うけど、何より私は「こんなに父と娘の仲がいい小説家の家があるのか!」と衝撃を受けました。あ、これが北家の写真ね(下)。
斎藤 これは軽井沢の小さな山荘です。先ほどお話したように父は信州の山々に魅せられて、自然や昆虫も好きですし、戦時中に立ち寄った軽井沢の憧れもあって、将来は軽井沢で暮らしてみたいという夢をずっと持っていて、ようやく山荘を持てたんですね。
ある日、この家に遠藤先生がいらしたのを覚えていますが、やっと父が買ったこの家を見るなり、大声で、「北君の家はこんなちっぽけな家なのか、情けないなあ」と仰って、「うちは何千坪もある広大な別荘だ。うちへいらっしゃい。うなるほど金貨があるから、龍之介はそれでじゃらじゃら遊んでおる」。で、母と父が伺ったら、遠藤先生の別荘は確かに広大で、玄関に「うちの前でおしっこをさせるな」という看板が立っていて、中に入ると龍之介さんが本当に金貨で遊んでいるのです。
遠藤 金貨チョコレートです、あれ(会場笑)。客が来ると、父がどこからともなく金貨のチョコレートを何十枚も持ってきて、「おまえ、これで遊んでろ」。私は言われるまま(会場笑)。
阿川 うちも軽井沢の山の外れにちっちゃい小屋を作ったものだから、気の毒に遠藤さんがうちの前の坂を上がって上がって、やっと着いて、「阿川、これはおまえ、別荘とは言えんのやないか? これ、山越えたら群馬県やろ」。群馬の方には失礼なんですけど、本当に山を越えたら群馬県なんです。「これはもうターザンの家や、おまえはターザンや! 恥ずかしゅうないんか」って(会場笑)。
矢代 遠藤先生は別荘のネーミングがうまくて、うちも最初は貸別荘からスタートして、やがて家を作ったんですけど、たまたま照明の笠が大きかったんですよ。そしたら遠藤先生が「矢代んちはヤマギワ電気か!」。確かにそんな感じもするので、父はシュンとしてました。でも、軽井沢で遠藤先生にお会いするのを、遠足の前の小学生みたいにワクワクしながら待ってたんですよ。北さんに電話して、「遠藤はいつ来るのかな」なんて言っていたのを覚えています。
斎藤 軽井沢から父が東京へ帰る時の話ですが、冷蔵庫にキュウリが三本残ったんですね。保冷剤がない時代なので、父はもったいないと思って、遠藤先生のおうちに「キュウリ三本残ったので」と持っていった。たまたま同じ時期に、ある作家さんが文学賞を受賞されて、父がお祝いに白ワインをお贈りしたんですよ。そしたら、その方が「北さんから白ワインが届いた」と雑誌に書いたのを遠藤先生が読んで、「うちの別荘であれだけ飲み食いして、ウイスキーを飲ませ、ブランデーを飲ませてやったのに、北は余り物のしなびたキュウリ三本しか持ってこない。ほかの作家には白ワインを贈っておきながら、なんでうちにキュウリ三本なんだ」とエッセイに書かれたんです(会場笑)。おかげで、読者の方から「今まで北さんの本を読んできましたけど、こんなにケチな人だとは思いませんでした。二度と読みません」って抗議の手紙がたくさん来ました。
遠藤 ちょっとしたことで因縁つけるのが本当にうまい人でしたよねえ(会場笑)。
(次号完結)
開催・町田市民文学館ことばらんど
(あがわ・さわこ 阿川弘之長女)
(えんどう・りゅうのすけ 遠藤周作長男)
(さいとう・ゆか 北杜夫長女)
(やしろ・あさこ 矢代静一長女)