書評
2017年3月号掲載
特別書評/松浦寿輝『名誉と恍惚』
懐かしい蠱惑の長篇
対象書籍名:『名誉と恍惚』
対象著者:松浦寿輝
対象書籍ISBN:978-4-10-471703-3
なんて懐かしい小説だろう。三年前の春だったか、いつものように眠れぬまま深夜に起きてウイスキーをちびちびやりながら届いていた「新潮」五月号をめくるうち、この小説の連載第一回に巡りあい、たちまち引き込まれてしまった。舞台は魔都・上海。それだけでも充分だった。子供の頃、山田五十鈴主演の「上海の月」その他上海で撮影された映画を見ていたからそこがどのような場所かは知っていて、以来ずっとそこはまさに蠱惑の魔都なのであろうと憧憬してもいたのだ。それからは毎月「新潮」を待ちかね、届いた夜はグラス片手に楽しむこととなる。主人公芹沢一郎の活躍が始まるのは一九三七年、物語はその数年前から始まっているからちょうどぼくが生まれる前後、だから尚さら懐かしいのだ。ぼくが生まれた一九三四年は主人公が警視庁から上海の工部局警察部に赴任させられた年である。ここで主人公の運命や話の展開を書いてもこの作品の魅力を伝えたことにはなるまいが、早い話彼が陸軍参謀本部の嘉山少佐に呼び出され、青幇(チンパン)の頭目であり上海に君臨する実力者蕭炎彬(ショー・イーピン)に紹介してくれと頼まれたのは、親しくしている馮篤生(フォン・ドスァン)という金持の老時計店主がその蕭炎彬の妻美雨(メイユ)の伯父に当るからであった。
この時代の上海の情景、芹沢が住んでいる共同租界の様子などが詳細に記される中、挿入される音楽、映画などがぼくの好みの対象ばかりなので嬉しい。昭和七年、チャップリンが事実上の妻であるポーレット・ゴダードと共にダンスホール「百楽門舞庁(パラマウント・ボールルーム)」に立ち寄ったこと、コール・ポーターの名曲「夜も昼も」や陽気な「エニシング・ゴーズ」や「ビギン・ザ・ビギン」や、ミスタンゲットの歌う「サ・セ・パリ」やシュバリエの「マ・ポム(お気楽なやつ)」などのシャンソン、映画としてはブニュエル「アンダルシアの犬」などが続続と登場、同時に芹沢が実は朝鮮人との混血であることによって嘉山少佐につけ込まれる経緯、日中関係、世界情勢、風景やその場の情景、芹沢の心理が満遍なく叙述される。特に主人公の心理、即ち考察、感情、回想などはまるで心理小説の如く詳細に叙述され、それはジョイスやスターンやウルフの「意識の流れ」に類するものではなく三人称でありながらあくまで主人公に寄り添った視点で描かれていて、ロシア人の美少年アナトリーとの媾合では射精の瞬間の意識まで描写されている。このすべてに渉る作家の作業はまさに全体小説――と書くと意味が違ってしまい、特に現代では全体小説なんてエンタメでしか書けない筈だからぼくはこれを全体文学と言ってしまいたいのだが、この作品などはそう言える価値充分であろう。
芹沢は嘉山少佐を蕭炎彬に紹介するが、自分の代りに妻を食事に連れて行ってやってくれと頼まれ、しかたなく蕭の第三夫人の美雨と出かけることになり、知っているバーへ連れて行く。ルイ・プリマの「Pennies from Heaven」などという曲が演奏されているさなか、芹沢は警察官仲間の乾という男に話しかけられてしまうのだが、ここで美雨がとんでもない演技力を発揮し、難を逃れる。別の店に移ったあと、美雨は芹沢に初めて自分が女優であったことを告げるのだが、ここで彼女の論じる、スタニスラフスキーの感情移入理論でもディドロの俳優論でもない技巧としての演技論が実にみごとなのだ。篇中の白眉としてぼくはこの部分をいつまでも記憶するだろう。
芹沢は突然、直属の石田課長から依願退職を求められてしまう。でなければ懲戒免職だという。機密保護法違反その他が理由と聞かされた芹沢はさまざまに考えた末、嘉山少佐に利用されていたと知り、真相を求めて奔走するうち、思いがけぬ事件を起してしまい、ついに警察から追われる身となる。馮篤生に匿って貰い、租界にいてはたちまち見つかるから浦東(プートン)のはずれの染色工場に行けと薦められ、ここから名を沈昊(スン・オー)と改めた芹沢の逃避と放浪が始まる。
六人部屋で生活している時、五ヶ月前の日本語の新聞を久しぶりに手にした芹沢は夢中になって読む。第二次世界大戦直前の、時にはそれは戦後の一時期にまで繋がる、つまりぼくが少年時代に見たり聞いたりした歌や映画や流行語が記事や広告になっていて、なんとも懐かしさが募るのは小説のこうした部分である。淡谷のり子の「別れのブルース」、ディック・ミネの「人生の並木路」、ディアナ・ダービンの「オーケストラの少女」、高勢實乗(みのる)の「あのねおっさん、わしゃかなわんよ」等、等、等。長谷川一夫の新作映画というのはまさにこの頃上海において撮影されていた筈の、李香蘭と共演した「支那の夜」のことではなかったろうか。
苛酷な肉体労働と流浪の末、熱病にかかって呉淞口(ウーソンカゥ)の汚い小部屋に押し込められていた芹沢は、馮篤生の使いの洪(オン)という青年に助けられ、ふたたび上海租界へ舞い戻ってくる。ここでは馮が経営する映画館の映写技師になるのだが、この小さな「花園影戯院(ガーデン・シアター)」で上映されているのが「駅馬車」「我が家の楽園」「舞踏会の手帖」「望郷」「大いなる幻影」といった、そのほとんどは戦後の我が青春時代に再上映された懐かしくも胸ときめく外国映画ばかりだ。芹沢と次第に親しくなっていく洪という青年はこの映画館の支配人のような立場にあったのだが、ある日馮篤生の命令だというので支那で作られた「落花有情」という古い映画を上映させられることになる。ところがそのヒロインを演じているのがあの美雨であった。たった一度だけ会った美雨のことを芹沢は折にふれ想い続けていたのである。映画は他愛のないメロドラマであり出来も悪かったが美雨だけは立派に演じていた。ただ悪役として登場する日本人の将校ゆえにこれを反日映画と見て抗議が殺到、四日で打切りとなるのだが、その最終日、映写室の小窓から芹沢は最前列にいる美雨に気づく。だが警察関係者に見られるのを疑懼(ぎく)して彼女の後を追うことができない。「疑懼」という表現はしばしば現れるが、こういう魅力的な言葉にぼくは弱い。「ぎくっとする」の語源なのだろうかなどと考えさせてくれる。
馮篤生は打切りにも懲りず美雨の主演映画をさらに三本、立て続けに上映するよう命じてきた。いずれも駄作なのだが美雨の演技だけはしっかりしている。しかし最後の「五佳人」は残忍で好色な日本兵と美雨たちダンスホールの踊り子が戦うという話で、これが徹底的なドタバタであり日本兵が滑稽に描かれていて、案の定抗議はあったものの支那人の客は大喜びし、大ヒットとなった。だがそのため風当りが強くなった馮篤生は、この映画館を休館すると言い出す。行く先がなくなった芹沢の前に美雨があらわれ、うちへ来て住めばいいと言う。蕭炎彬が上海から逃げ出したあと、その宏大な屋敷に住んでいるのは美雨だけだった。
その邸内には好青年の洪も起居していた。ここで魅惑の色模様が繰り広げられる。ある夜芹沢は、阿片を吸引した美雨と洪が交わる寝室に誘き寄せられ、ここに三人の痴態が現出するのである。映画にはしにくい場面である。ところでこの小説は主人公の視点による三人称だからハードボイルドと近似ではあるのだが、そして事実、主人公が何度もひどい目に遭ってめげないというハードボイルド的側面も持つのだが、あの乾いたユーモアがない。そして本篇の数少ないユーモアが「五佳人」に出てくる日本兵の滑稽なドタバタ、そして三人の交情の翌日の、羞恥心で身の置き所のなくなった洪による道化ぶりである。猛烈に喋りまくる洪を美雨がからかうのだ。
さて、小説はいよいよクライマックスにさしかかる。芹沢と嘉山の対決である。しかしここは、なぜそれが作者に伝わったのかわが最も愛するスタンダード・ナンバー「I Can't Give You Anything But Love, Baby」や、「I'm Getting Sentimental Over You」といった曲が聞こえてくることのみ記し、読者諸氏の楽しみのため書かないでおこう。実際、「新潮」の連載最終回にこのラストを一挙掲載した処理は正しかった。ところがである。あの「カサブランカ」のラストシーンに似た感動を齎す最後の場面に続いて、新たな一章が書き加えられているのである。なんでこんな章を付け加えたのかなあ、もとのままでいいのになあと思いながら、今は七十八歳になり、相変わらず沈昊という中国人名のままの芹沢が久しぶりで上海へ戻ってくるエピローグを読み続けるうち、やっと最後の感動に遭遇した。観光でやってきた二人の現代日本娘に遭うのだが、この時の主人公の感慨が泣かせるのである。ははあ、さてはテーマと言ってもよいこのくだりが書きたかったのかと納得させられてしまう。
連載中からずっとそうだったのだが、ぼくはまるで映画を観ているような気分だった。少年時代、青春時代の古いモノクロの超特作映画を、あの丁寧な、脚本のがっちりした撮り方による映像を頭に浮かべて読んでいたのだ。むろん娯楽作品だから多少役柄は異なっても俳優全員人気スタア、主演の芹沢は上原謙、美雨は高峰三枝子、嘉山は佐分利信、馮は山本礼三郎、洪を佐田啓二その他、その他である。このような楽しみ方ができるのもこの作品なればこそであったろう。然り。ぼくはこの作品にミーハー的な惚れ込み方をしてしまったのである。この大長篇、作者は大変な苦労をして書いただろうなと思っていたのだが、実は比較的すらすら書いていたと編集者から聞かされてぼくは驚愕したのだが、参考文献を見て、なるほど本当のインテリというのは百科辞書的な知識を持っているのではなく、過去に読んだ膨大な書物のどれに何が書いてあるかを知っていることだったのだと思い知らされたのだった。
(つつい・やすたか 作家)