書評
2017年3月号掲載
魂というもの
――古井由吉『ゆらぐ玉の緒』
対象書籍名:『ゆらぐ玉の緒』
対象著者:古井由吉
対象書籍ISBN:978-4-10-319211-4
昨年の春から秋にかけて体調を著しく損なった。原因不明の発熱が続き、身体に力がまるで入らず、頭のなかも濁って仕事もできない。ならばというのでハッピーな感じの本を手にとっても三行でいけなくなってそれ以上読めない。
最初は風邪が治りきらぬのだろうくらいに考えていた。ところが夏になっても症状が治まらない、それどころか秋口にはより深刻化して、体重は八瓩も減り、これは、もしかしたらもしかする、と思い始めた。
しかし、秋が深まるにつれて次第に症状が治まっていって、熱も出なくなり、なんだかわからないのだけれども、数ヶ月のうちにどうこうなるということはなさそうで、まあよかったこと、恐らくはそれまで浴びるように飲んでいた酒を急によしたので、身体がとまどいしたのだろうと決まりを付けた。
けれども本当の原因がはっきりしないので治ったわけではなく、言っているうちに死ぬかもしれない。そう思うと、死んだら自分はどうなるのだろうか、ということをどうしても考えてしまうが、けれども死んだらその考えもなくなってしまうのだから、考えたってしょうがない。というか、考えがなくなるということを考えは考えられないようになっていて、考えが、考えがなくなること、を考えようとすると、考えが急にボヤボヤし、そのうち朦朧として知らない間に眠りに落ちて、或いは別のことを考えて、そんなことを考えていたことを忘れてしまっている。
だからあ。そんなことは考えてるのは無駄だから、生きている間はそんなことは忘れて釣り竿の手入れをしたり、スペイン語の学習をするなどした方が余ほど増し、ということになる。なので実際に庭池の排水溝に溜まった落葉をかき集めて捨てるなどしたのだけれども、その池の反対側にジョウビタキが来て水を飲んでいて、それを見つめたい気持ちが働いたら、そう思っただけでその意識を察知して飛んで逃げて忽ち見えなくなり、そうこうするうちにまた考えてしまうのは、『ゆらぐ玉の緒』を読んでしまったからでもある。
死んだら意識や考えがなくなる。これは間違いがない。なぜなら意識や考えは自分の脳の中で発生しているもので脳が死んで腐ったら意識はもはや生まれない。ところがそれでも玉、魂があるというのなら、魂というものは意識とはまったく違ったものとして自分のなかにあって命として身体につながっているということになる。ジョウビタキはその魂につながっているから逃げたのか、とか。
なので例えば小説を書く場合、なにを書いているかというと、それは例えば目の前にある池やら鳥やら書く場合でも、いったん自分の考えの中に取り込まれて、自分の意識の中に映じた景色を書いていて、だから、別の言い方をすると、景色を書いても景色ではなく自分の考えや意識だけを書いて、魂のことはなにも書いていないということになる。まあ、言わば魂の入ってない仏像のようなもので、だからときどき入魂の作なんていうのは、だいたいが入ってないというか、入ってないのがデフォルトというか、土台、入るはずがないと皆が思っていると思っていて、だからこんなこと本気にとらないでね。と思っているから、とか。
しかるになんということであろうか、ここに書かれている小説はどれもその意識の領域を超えた、意識が意識している音や匂いや風景が、意識からいったん魂に変換されて、それからもう一回、意識にくだって、それが文章として綴られているみたいに感じて、えげつない。そう考えるとところどころに歌が出てくるのも、教養皆無の私には文学的な精神より体調・気分のようなもの、人が死んだときに雲とか鳥とかを見てその人の身体をアリアリと感じるような感じを感じた。
だから。覚えていることも覚えていないことも、別人に間違えられたその別人の記憶が自分の記憶と符合したり、自分と蹠をぴったり合わせて立っていたり、或いは、うずくまって水を見つめることが淪落と同じことだったり、という、生きて意識や考えにとどまっている状態だと、あまりない幽冥があちこちからのひび割れから、それは地面とか壁といった平面だけではなくて、時間とかも身体とか気象とかからもボコボコ出てきて、勢いでめくれて何回も裏返るなんてことが起きて。
ということが起きるとき、なんの力が働いているのか。魂というのは勝手に気象に揺らいでその揺れる力が働いているの? てそんな物理的な。と思ううち、また熱が上がってきて死ぬ感じがしたら、鳥が水辺に戻ってきて、こんだ、逃げなかった。
(まちだ・こう 作家)