書評
2017年3月号掲載
今から二十七年分の外挿
――黒川創『岩場の上から』
対象書籍名:『岩場の上から』
対象著者:黒川創
対象書籍ISBN:978-4-10-444408-3
まず、爽やかな少年が登場する。西崎シン、十七歳。わけあって鎌倉の父の家を出た彼が院加(いんか)という北関東の町に到着するところから話が始まる。この架空の町の名はアイヌ語に由来して(北日本では珍しいことではない)、「インカルシ」すなわち「いつも眺める所」の意であるそうだ。つまり北海道の遠軽(えんがる)と同じ語源であることが話の後半で明らかになる。院加にも遠軽にも遠くを見晴るかすことができる高い岩場がある。
その先で、黒川創の小説の常として、たくさんの人々が出てきて群像劇という形の展開になる。それぞれに勝手な生きかたをしているのに、何かの絆によって結ばれた人たち。彼らの発言と行動と運命が絡み合ってストーリーはどんどん広がり、枝分かれしてまた合流し、滔々たる大河になる。
この小説の要は、これが二〇四五年の話であることだ。つまり今から二十七年の近未来。だから西崎シンがこの町で最初に出会うのは《戦後100年、いまこそ平和の精神を未来の世代に受け継ごう!》という舌足らずなスローガンを掲げた活動家グループで、八百屋や農民など、みんな普通の市民たち。
いわゆるディストピアの話ではない。二十七年ではオールダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』やジョージ・オーウェルの『1984』、ザミャーチンの『われら』など、今とまったくかけ離れた悲惨な未来にはまだ至れない。だが、その分だけ現実味があって恐いのだ。
二〇四五年までの途中で、超大型の太陽嵐が起こり世界中の電気系統が破壊されて九千万人が死んだとされるけれど、それくらいの負荷には人類の文明は耐えられる。東日本大震災で日本の経済界は被災者の悲運を利用して焼け太りとも言うべき荒稼ぎをしたのではなかったか。フクシマ第一からの放射性物質の流出が、まるでしつこい出血のように止まらないのを承知で、国内の原発再稼働はおろか、原発輸出までが画策される今であることをどこかで気にしながら読み進めるような話。
この話の時代は現在の日本の延長上にある。
外挿 extrapolation という技術系の用語がある。既知の数値データを基にして、そのデータの範囲の外側で予想される数値を求めること。
これは外挿の原理に基づいて作られた物語である。自動車の自動運転はもう実現している。憲法は改正されており、人権は政府の手の内にある。戦争という言葉は「積極的平和維持活動」と言い換えられる。ちょうどたった今の政府が南スーダンの「戦闘」を「武力衝突」と言い換えているように。
群像の内の誰かを追ってみようか。
西崎シンは平和活動グループの中でアヤさんという年上の女性にちょっと憧れる。しかし彼女は同じグループのタローさんと婚外の仲であって、これが破綻して二人はひとまず舞台から消える。
では二百ページほど先で再登場する彼女を追って北海道に渡ってみよう。美容師の資格を持つ彼女はタローさんと別れて道東の小さな町に移り仕事を得る。どうも遠軽らしい。その彼女に院加の平和活動の縁で脱走兵の支援というボランタリーな任務が舞い込む。逃げてきたのは院加の床屋の息子でボクサー志願に挫折して自衛隊に入った高田光一。その妹のめぐみがやがて西崎シンと恋仲、というような人と人の関係の網の目がこの小説ぜんたいにふわりと掛かっている。
一九六〇年代、ベ平連がやったように脱走兵の支援をするのは違法なことではなかった。しかし現代は自衛隊員の官舎の郵便受けに文書を入れただけで住居侵入罪に問われる時代だ。この傾向がこのまま二十七年続いたら(ここが外挿ということ)、脱走の支援は犯罪であるばかりか裁判なしの処刑の対象かもしれない。つまり国内でも戦時体制。
それでも人と人は愛し合うし、助け合う。一人では弱くてもアヤとケンジ(牧畜業)、光一と絵美、シンとめぐみの仲はしっかりして見える。少なくともこの話の中では彼らの寝床にまだ官権は踏み込んでいない。
最後の方には脱走ではなく叛乱を選んだ兵士たちが出て来る。緊迫感最高。今ぼくたちが立っているこの場所の地続きにこのリアリティーがある。恐ろしいことだ。
(いけざわ・なつき 作家)