書評
2017年4月号掲載
村上春樹『騎士団長殺し』書評特集
大きな胸を本当に愛せるようになるために
謎めいたタイトルと、『1Q84』以来7年ぶりとなる二〇〇〇枚の本格長編。発売前から大反響を呼んでいる
今年最大の話題作を、小説家の河野裕、現代美術家の鴻池朋子、評論家・思想史家の片山杜秀の三氏が読む。
対象書籍名:『騎士団長殺し』第1部 顕れるイデア編/第2部 遷ろうメタファー編
対象著者:村上春樹
対象書籍ISBN:978-4-10-100171-5/978-4-10-100172-2/978-4-10-100173-9/978-4-10-100174-6
イデアが顕(あらわ)れるとは? プラトンのイデア、つまり神的で崇高な観念がかたちを成すのか。それともマックス・ウェーバーがイデアのタイプというときのイデアか。具体が理念化され典型と化す。僧侶とか市民とかの抽象が顕れる。
読んでみたら違った。イデアは騎士団長の姿をとる。騎士団長は軍人。ウェーバー風に抽象すれば軍国主義。確かにこの小説には日本陸軍やナチスが出てくる。軍国主義に傷つけられる芸術家の兄弟も登場する。しかもこの小説の騎士団長はモーツァルトの『ドン・ジョバンニ』由来。ドン・ジョバンニは好色家。誰とでも関係したがる。彼をキルケゴールは自由の象徴と論じた。彼に敵対し、死して彫像と化し、ついに彼を地の底に沈めるのが騎士団長。モーツァルトの歌劇の騎士団長は軍国主義というイデアの顕れのようである。
でも『騎士団長殺し』の騎士団長はミリタリズムの理念型ではない。もっと善良なもの。おまけに身長が約六十センチ。まるでおもちゃ。顕れた瞬間、一九六五年の東映の長編アニメ映画『ガリバーの宇宙旅行』の大佐を思い出した。主人公の少年テッドの夢の中で、彼のお供をして宇宙を旅し、テッドの傷ついた魂を再生させる、ゼンマイ仕掛けの小さな大佐。この大佐がよく喋る。声は小沢昭一。その連想のせいで騎士団長の全ての台詞は私の脳内で小沢昭一の声に変換された。
声と音楽、そしてセックス。村上春樹の小説を成してきたもの。『騎士団長殺し』にはテレフォンセックスの場面もある。声は音楽とセックスに不可欠。音楽とセックスは似る。和声進行が重要な役目を果たす西洋のクラシックやジャズは特に似る。寄せては返す波があり、高まりがあり、絶頂があり、ついには虚しく、あとで思い出して感傷的になる。
過ぎ去って虚しくなった時間をいかに生々しく色づけて記憶するか。そこで絵画。『騎士団長殺し』は音楽とセックスと絵を組み合わせる。主人公はなかなか描けない画家。彼は十五歳のとき亡くした三つ年下の妹の幻影と共に生きる。胸がこれから膨らもうというときだったのに。その妹と同じ目をした女性とめぐりあって結婚する。妻は大人で、胸はもっと大きい。主人公も少女以外を愛せないのではない。相応に大人のつもり。しかし結局好きなのは十二歳の妹なのだろう。
そんな主人公が妹の分身のつもりで愛してきた妻を寝取られる。喪失感に耐えかね東北地方の太平洋岸をさすらったりする。だが音楽とセックスの海を漂うかぎりは真の回復も成熟もない。それらは刹那で滅するから。そこを突破すべく主人公はドン・ジョバンニよろしく遍歴する。私には小沢昭一の声でしゃべる騎士団長や、まりえという少女や、魂の友のような成熟した人妻に助けられながら。
ところで騎士団長の姿で顕れるイデアとは、プラトンでもウェーバーでもなければ何か。誰の念という固有性を失った、しかも性善説にのっかった悪意なき集合的意識のようなものがイデアと名づけられている感じ。このイデアは一人の相手に話すときも「諸君」という二人称複数形を使う。なんだか個をつきぬけている。こだわりがない。世界が広い。悟ってミイラになったお坊さんみたいな大慈悲心をもって語る。
主人公は彼に導かれ成熟してゆく。刹那をこえて遍(あまね)くの方へ。音楽から絵画の方へ。しかも『騎士団長殺し』の世界では主人公が妻を失うことと、戦争や震災で人が夢を断ち切られることがパラレルになっているようだ。主人公は世界苦を引き受けて地の底を旅し、自らの内側を食い破って帰ってくる。成熟する。主人公は生物学的には自分の子供ではなさそうな子を自分の子のつもりで育てられるくらいまでに。
とはいえ、なお展開されうる材料が残るようにも読める。指揮者のアーノンクールがモーツァルトの第三十九番から第四十一番までをひとつの物語をなす三部作と見立てたことを思い出す。第三十九番で順風満帆のつもりだった主人公が転落。第四十番で暗黒の胎内くぐり。第四十一番でこの世に力強く復活。『騎士団長殺し』にも第四十一番がありそうな。そこでは顔の部分を「乳白色の霧がゆっくり渦巻いてい」るようにしか見えない「顔のない男」の肖像画がきちんと描かれ、主人公はあらゆる記憶をしっかと抱き締める男になるだろう。「イデア」と「メタファー」の次は「シンボル」かしら? 「顔のない男」にはドビュッシーが似合うようで、ドビュッシーはサンボリストだから。妄想を膨らませている。
(かたやま・もりひで 評論家・思想史家)
対象書籍 電子配信情報
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