書評
2017年4月号掲載
色の神秘を読む
――志村洋子『色という奇跡 母・ふくみから受け継いだもの』
対象書籍名:『色という奇跡 母・ふくみから受け継いだもの』
対象著者:志村洋子
対象書籍ISBN:978-4-10-350811-3
藍甕(あいがめ)に重くしずかに藍が沈んでいる。そこに手を差し入れたときの印象をどう書けば伝わるだろう。藍は固有の体温と血液にも似た濃度を持ち、自分に触れてくるものを迎え、目覚めようとする意志をまどろませている。藍は手を差し入れるものに、液体と意思を通わせることへの生理的なためらいを与えもし、思いもよらない親密さで秘密を、この星はなぜ緑と青に包まれているかという秘密を語りかけもする。
輪に束ねた紬の糸を藍に漬ける。引き上げ、手繰っては浸す。瞬時に顕(あらわ)れては消える色の変化に蠱惑されながら、幾度もそれをくりかえす。指紋、爪の隙間、手指の皺という皺、接触した体表のあらゆる窪みに液体の意志は沈着し、ひと月あまり、洗っても完全に消しさることはできない。それは契約のしるしであり、染めることは染まることでもある理(ことわり)を、藍ほど強い力で、それも執念深いとまでいえる力をもって教えてくれる存在をほかに知らない。志村家の染め場はもとより、それに続く廊下や座敷に身を置けば、かすかに漂う藍の香は多くの植物染料の香と混じりあい、そこが原型的なものたちの行き交う淵であり、ひとまずは眠りについた自然が、色となって目覚める場所でもあることを思い知らされる。
嵯峨にある志村家とその工房(都機(つき)工房)を百回は訪れただろうか。ほぼ月に一度の割合で洋子さんと会い、ふくみさんもご一緒のテーブルを囲み、語り切れないほどの話に興じてきた。私のような畑違いの男がどうしてと思われるかもしれない。志村家は色を扱い、糸を操る家ではあっても、だが職人の家ではない。そこに匂い立つことばや情感は、染め草や蚕の糸などの、素材だけの操作にとどまらない。染織とは異なる領域から訪れる表現者や、異境で採取したものたちとの交感によって色は生気を増し、より深い表象を現すものでもあることを彼女たちは知悉している。その家は三代にわたり、信念としてそれを担い、深化させてきた家でもあることを、行くたびにどれほど感じたかしれない。
『色という奇跡 母・ふくみから受け継いだもの』は志村家三代を縦糸とし、そこにさまざまに交感しあった植物や、人や神話や事象を横糸として織りなした裂(きれ)にもなぞらえられるだろう。本書を手にとる読者は、紬の裂が工芸や服飾を超えて「ことば」であり、多様な観念と、多彩な象徴を担うものであることを知るはずだ。
たとえば「苦よもぎ」と題された文章がある。福島の原発事故の直後、私が描いた一点の絵が志村家にある。その絵は『黙示録』に登場する星「苦艾(にがよもぎ)」を主題とした水墨で、砂漠とも焼土とも見える地平を苦艾が降りしきるなか、痩せ馬に騎乗した死が疾駆する絵なのだが、描きながらふと、ニガヨモギで染めたらどんな色が出るかと想像し、染めてみませんかと洋子さんに提案してからの顛末が語られている。
詳しくは本書をお読みいただくとして、洋子さんの反応は素早かった。日本に(たぶん)自生していないそれが、ある大学の薬用植物園にあることを知って足をはこび、別のところから株を手に入れ、工房の庭で育てた。媒染によって色の出方は異なるが、染めてみれば『黙示録』の不吉なイメージなど微塵も感じさせない若草色が、まさに萌出るという表現そのものの鮮やかさで誕生した。
ニガヨモギで染められた裂は私の絵を飾り、色彩の透明感と洗練度をさらに高め、ふくみさんの米寿のお祝いの振袖となる。一昨年の文化勲章親授式のとき、ふくみさんが召されていたその振袖『壽壽(じゅじゅ)』をテレビでご覧になった方も多いのではないだろうか。そう、あれは約束された手が、はるか昔から約束されていた色彩を、不吉な神話の封印を解いて呼び覚まし、今の世に蘇生させた初々しい生命の色なのです。染織は科学でもあるけれど、科学で読み解けない意志――神秘とも呼ばれてきたものの意志がその底に流れていることを証明するためにもあり、その縁起として本書は編まれた。
「他人はなぜ私が、母と同じ道に入ったのかと聞く。作家の仕事なので母からはこの仕事を継いで欲しい、とは一言も言われなかった。(中略)だが、成熟した大人になり、世界が少しずつ見えるようになると、否応もなく染織に魅かれていく自分自身がいた。それが不思議だった」。洋子さんはそう書いているが、不思議などない。染織に携わる以前からあなたの手は深く染まっていた。祖母から母へ、母から娘へ流れる血の、藍甕のなかの藍にも通じる体温と濃度によって。
(からさわ・ひとし 美術家)