書評

2017年5月号掲載

子規の生涯を描いたユニークなオマージュ

――森まゆみ『子規の音』

鹿島茂

対象書籍名:『子規の音』
対象著者:森まゆみ
対象書籍ISBN:978-4-10-139024-6

 正岡子規が三五歳で夭折せずに天寿をまっとうしていたら、と『墨汁一滴』や『病牀六尺』『仰臥漫録』を読んだ読者がついつい想像したくなるのは、こうした子規最晩年のエッセイに漲る恐るべきパッションのせいである。ものすごい食い気、ものすごい執筆への情熱、脊椎カリエスの激烈な痛みにもかかわらず、最後の一瞬まで、なんでもいいから「生きている」ということの喜びを味わい尽くさずにはいられない性急な貪欲さが、読者を妙に感動させると同時に、明治という未来に大きく開けた時代に思いを馳せさせることになるのだ。

「最後の何年かがどれほど苦しかったとしても、この人が明治の日本にいてよかった」

 私もそう思う。司馬遼太郎もそう感じて『坂の上の雲』を書いたのだろう。もし秋山兄弟だけが主役だったら、あのような開放感は生まれてこなかったにちがいない。
 それはさておき、本書で著者が試みているのは、子規の残した一句一句を写真のスナップ・ショットと見なして、そのスナップがどんな視点から、またカメラはどの方角に向いていたかなどを検証しながら、子規の短い日々を、それこそ分刻み、秒刻みで描いていくことである。そのため、病魔に侵されながら恐るべき健脚ぶりを発揮して日本全国を歩き回った子規の足跡を忠実に追い、俳句が読まれたであろう地点に立ち止まり、子規の眼底に映っていたはずの光景を思い浮かべようとする。この意味において、ザッハリッヒな子規の俳句は素晴らしい視覚効果を発揮する。
 しかし、子規の俳句の特徴はスナップ・ショット的な「ある特権的瞬間の切り取り」だけからなるのではない。俳句は言葉の芸術であるがゆえに、視覚的感動は音韻的感動に転位されねばならない。
 そう、著者が本当に言いたいのは「音」のことなのだ。子規の俳句には多くの音が読み込まれているが、それ以上に俳句の一字一句が充実し、自立した「音」の連なりとなっているのだ。この意味で、子規の俳句はじつにシニフィアン的なのであり、だからこそ、今日まで愛唱され続けているのである。
 ところで、これとまったく同じことが子規の俳句が埋め込まれた著者のテクストについてもいえる。
 私は前々から著者は日本一の名文家であると思っていたが、本書はさらにそれに磨きがかかっている。鴎外の史伝ものを思わせる漢文脈の律動感をたたえた名文なのである。それは、極端に言ってしまえば、何が書かれているか分からなくても口に出してそのテクストを読むだけで気持ちがよくなるという類いの文章なのだ。
 たとえば「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」を配した「はじめに」の冒頭のテクストを読んでみよう。

「小学生の頃、私が初めて暗記した子規の歌。何度口ずさんだことか。やや女性的な感じがするが、肺結核から脊椎カリエスになって仰臥する三十代前半の子規にとって、目に映る景色は、この東京根岸の小さな家の、わずか二十坪の小園しかなかった」

 なんでもないテクストのように思えるかもしれない。だが、これは実にうまい文なのだ。たとえば、「この東京根岸の小さな家の」と「の」を一気に、なんのこだわりもなく三つ繋がりにするところなど。これは「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の」という子規のリズム感が肉体の隅々まで入っていなければ出てこない音韻感覚だ。では、「の」が三連になっていればいいのかといえば、そうはいかない。「この東京の小さな家の」としたら、ただのつたない文章になるだけだ。「の」の三連が許されるのは「東京根岸」となっているからなのである。
 ことほどさように、本書はシニフィエ(意味)ばかりでなく、シニフィアン(音)において子規の生涯を描き切った、極めてユニークなオマージュなのである。

 (かしま・しげる 作家)

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