書評

2017年5月号掲載

「裸ったって、芸術じゃねえか、なあ」

――木下直之『せいきの大問題 新股間若衆』

南伸坊

対象書籍名:『せいきの大問題 新股間若衆』
対象著者:木下直之
対象書籍ISBN:978-4-10-332132-3

「先生、ちゃんとお部屋にカギをかけておいていただかないと困ります!」
 と、美人先生に注意を受けたのは、長髪で無精髭を生やした、図工の先生で、コントやマンガに出てくる画家、みたいな先生だった。先生はいきなり叱られてポカンとして「え?」と言ってる。美人先生は、
「だって先生、中に裸の絵の本があるでしょ、生徒が見たら困るじゃないですか」
 と言うのだった。私はその画家先生のカギのかかってない個室にしばしば出入りをして、「裸の絵の本」を見たりしていたから、美人先生はそれを見たのかもしれない。画家先生は、はあ、と素直に返事をした後に私の方を見て、
「裸ったって、芸術じゃねえか、なあ」
 と同意を求めるように仰った。私が今度はさっきの画家先生みたいに、不得要領な返事をする番だった。
 芸術なら裸でもいいという理屈がなんか片づかない。とはいえその裸の絵の本は、めちゃめちゃケツのでかいおばさんが三人全裸で立ち話してるみたいな絵とかばっかりで、裸は裸だけど全然やらしくないのだ。
 しかし泰西名画っていうのは、何だってこんなにみんなして全裸なんだろう? と私はそんな気持でその画集を見ていた気がする。やらしくないだけでなく、なんか変だ。
 違う意味合いで、なんか変だ。と思って、しかしその時は、ものすごくやらしくて興奮した本があって、それは床屋さんに置いてあった、趣味の「緊縛写真集」だった。女の人を縄で荷造りみたいに縛ってあって、なかには痛そうにしてる人もあるんだけど、「これは見てはいけないものだな」とスグ分かるので床屋のオジサンには気づかれないように熱心に見た。でも、なんで縄で縛ってあるとやらしいのかは、よく分からないのだった。
 その頃から私が不思議に思っていたのは、湖のほとりとか公園とか、駅前や大きな建物のそばにある全裸の女の人の銅像が、どうもなるべくやらしくならないような様子に造ってあることで、そのくせ裸であるということだった。
「芸術だからか......」とも思ったが、そこももうひとつ分からない。木下直之さんの本を読んでいると、その頃の気分が戻ってくるようで、とてもおもしろかった。
 それと同時に、木下さんの名付けたいわゆる「股間若衆」である。これがとてもおもしろい。男の全裸彫刻の局部の処理を細かく観察していくことで、いろいろ見所があるのに気がつく。この見所を味わうことのおもしろさである。
 葉っぱだったり、ふんどしだったり、なんだか曖昧な凹凸(曖昧模っ糊りと木下さんは命名した)。こうした普通の大人がいいかげんなところできりあげてしまってるようなことを、よくよく考えていくと、どんどんおもしろくなる。
 この股間若衆とか曖昧模っ糊りとかっていう、地口も(つまり単なるダジャレなんだけど)わざわざ、こういう地口を思いついてみるということが、考え方のスジ道を、通りのいい、滑らかな常識とは違う発想の入口に導いてくれるのだ。
 この本は、六つの章に、春画とか猥褻裁判とかそれぞれ面白いトピックがあつめられ、掘り下げられている。それぞれがとてもおもしろいのだが、底でつながっているのは、てきとうに物わかりよく終らせないで、さらにふみ込んで考えることによるおもしろさなのだった。
 そして、そのおもしろさを味わうという心の余裕だろう。短兵急に結論を出してしまうよりも、たとえば日本国中の「股間若衆」をたずね歩いて、その工夫のディテールを究明し、創作の情熱を感取する。
 日本では、明治以来、「芸術なら偉いもの」「芸術の本場はヨーロッパ」という誤まった常識が作られてしまったけれども、そういう常識のつまらなさを解きほぐすのは、このように具体的によくよく見ることだと思う。
 たとえば、黒田清輝の先生のラファエル・コランの代表作〈フロレアル〉だ。この絵は中学二年の私が見たら「やらしい」と思う絵だ。いま見てもそう思う。どんなに言訳をしても、原っぱにいきなり女が全裸で寝転んでるこの絵は、ヘンだしやらしい。
 黒田清輝の、観念的で理想化された裸体画といわれる〈智・感・情〉も結構やらしい。とくに中央の〈感〉が、やらしくできてる。〈智〉と〈情〉は余計、この一枚だけでよかったのにと思う。

 (みなみ・しんぼう イラストレーター)

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