書評
2017年6月号掲載
又吉直樹『劇場』刊行記念書評特集
未熟な者だけに許された
対象書籍名:『劇場』
対象著者:又吉直樹
対象書籍ISBN:978-4-10-100651-2
一気に読み進めたいのだけど、実際読む手は止まらないのだけど、苦しくて苦しくて、どうしても一度伏せてしまう作品がある。そんな作品に出逢うのは稀で、だからしばらく動悸が止まらないし、読み終わった後もその世界にずっと引きずられる。「劇場」はまさにそういう作品だった。
主人公の永田は『おろか』という劇団を主宰している若い男だ。主宰しているといっても劇団はちっとも評価されず、わずかにいた劇団員ともぶつかり、結果永田の中学・高校の同級生であり理解者でもある野原を除いて、彼らに去られてしまう。
永田という男を一言で表すのは難しい。考えすぎるところがあり、いつも憂鬱で悲観的、悲しくなるほどに純粋で、とにかく複雑である(でも、人間は常に複雑なものなのではないだろうか。特に若い人間は。彼らは自身の複雑さをもてあましたまま生きている)。
永田はある日沙希という女性に会う。沙希と会った瞬間、永田は自分でも理解出来ないおかしなことを口走り、必死で彼女に接触する。「声をかける」というような軽やかなことでは決してない。生き延びるため、ほとんど命がけで彼女を求めているように思う。
『この人を生まれた時から知っていて、間近で人生を見守ってきたことと等価の感覚をこの瞬間に得たのだ。』
それは永田にとってまさしく運命が変わる瞬間だったのであり、沙希にとってもそうだった。沙希ははじめ永田をこわがりながら、やがて笑いかける。
沙希は優しい。永田と暮らし始めた彼女は、とにかく永田の才能を認め、永田の存在を認め、ほとんどすべてを受け入れる。このうえなく感謝し、愛しつつも、同時に永田は彼女のその純粋さ、底なしの優しさにおののく。それゆえ、永田の愛は鋭角なものになり、永田の心を理解出来ない沙希を傷つけることになる。
恋愛小説と呼ばれるだろう。確かにこれは、若いふたりのつたなくもどかしい恋の話でもある。でも、もちろんそれだけではない。これは、演劇という表現形態との戦いの物語でもあるのだ。
作中、『まだ死んでないよ』という劇団が登場する。野原に誘われその公演を見に行った永田はこう思う。
『作・演出を手掛ける小峰という男が自分と同じ年齢だと知り、不純物が一切混ざっていない純粋な嫉妬というものを感じた。彼を認めるということは、彼を賞賛する誰かを認めることでもあって、その誰かとは、僕が懸命にその存在を否定してきた連中でもあった。』
さらに『おろか』の元劇団員でもある青山は小峰を天才として認めており、抗いつつも永田は『強引に小峰を見上げさせ』られるようになる。
『たとえみっともなくても、余裕など捨てて、小峰よりも時間を掛けて、演劇に喰らいつかなければならない。』
永田の闘いは壮絶だ。そんな壮絶な戦火の渦中にあるがゆえに、彼の鋭角の愛はますます沙希を傷つけることになる。そして沙希は少しずつ壊れてゆく。
どうしてこんなに下手くそにしか生きられないのか。
それは冒頭で書いた彼の悲しいほどの純粋さからきている。人が避けて通れる場所に頭から突っ込み、人が軽くいなせる思考をとことんまで突き詰め、与えられた武器を拒否し、まるごしで闘おうとする。何も言い訳せず、真向から演劇に向き合い、完膚なきまでに叩きのめされ、それでも食らいつく。それは同時に彼の人間としての品であるように思うし、そのままこの作品の品でもあると思う。この作品は、安易な精神の逃亡を許さない。
だから私は苦しくなったのだ。
永田の欠点を数え上げればキリがない、沙希にだって言いたいことは山ほどある。きっとこういうふたりは、時代から取り残されてゆくだろう。でも、彼らの純粋さ、年月という残酷な理に顔面を強打され、それでも生きてゆく姿勢は、私たちが簡単に手放してしまったものだ。手放し、そしてなかったことにして、器用に社会に迎合してきてしまった「大人」の私たちに、彼らを笑う資格などないし、批判する資格もない。
未熟な人間にだけ許された醜さ、美しさ。
かいぶつみたいな作品だった。かいぶつの内臓を見せられているような気がした。こうやって書いている今も、私は「劇場」から逃れられないでいる。
(にし・かなこ 作家)