書評

2017年6月号掲載

『カタストロフ・マニア』刊行記念特集

アイロニーに満ちた苦い薬

小島秀夫

対象書籍名:『カタストロフ・マニア』
対象著者:島田雅彦
対象書籍ISBN:978-4-10-118714-3

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 東京に出現したオーロラ、太陽フレアによる未曾有の磁気嵐と原発のメルトダウン。ライフラインの停止。ボトルネック・ウイルスによる疫病が引き起こした人類の淘汰。その淘汰を生き延びようとする一握りの人間たちの陰謀。人類の英知をはるかにしのぐAI。そして「カタストロフ・マニア」と呼ばれるシミュレーション・ゲームなどなど。
 二〇三六年の近未来を舞台に、これらの魅力的な設定やガジェットを、これでもかとぶち込んで、世界の破滅と人類の未来を描くSFエンタテインメント大作。それが『カタストロフ・マニア』である。
 そう断言できてしまえばいいのだが、そうはいかないのが本作の最大の特徴であり、3・11以後の日本に登場した「震災文学」の中でも本作が独特のオリジナリティを放っている要因なのだろう。
 実際に、冒頭であげた設定のいくつかを組み合わせれば、ハリウッド的なカタストロフ・ムービーを何本もつくることができるだろう。あるいは、原発のメルトダウンや、政府の無策ぶりと陰謀論を、3・11以後の日本人の心象風景と重ね合わせれば、島田雅彦版『シン・シマダ・ゴジラ』を描くこともできただろう。
 しかし本作は、そのようなエンタテインメント的なストーリーテリングや、エンタテインメントだから描ける結末に落ち着くことを巧妙に避けている。
 主人公のシマダミロクは、新薬の治験者として郊外の病院に隔離されており、「カタストロフ・マニア」というゲームに熱中している。これは国家や文明を繁栄させることを目的としたシミュレーション・ゲームの一種なのだが、ミロクは繁栄よりも滅亡させることに喜びを覚えている。仮想空間でカタストロフを日常として生きているのである。ミロクは我々と同じように、安全地帯に身を置いて、滅亡という非日常を消費して満足を得る「カタルシス・マニア」なのだ。我々は、ゲームや映画、小説や漫画でカタルシスを得るだけではなく、例えばSNSの匿名アカウントで他者を攻撃することに喜びをえるような、病んだカタルシス・マニアになってしまっている。
 だが、カタストロフに見舞われたのは、ゲームの仮想空間だけではなかった。病院で冬眠状態になっていたミロクが目覚めると、インフラが停止し、ウイルスの蔓延によって人口が激減した、カタストロフ後の世界が広がっていたのだ。「災厄は冬眠でやり過ごすのが一番です」という担当医のメッセージも虚しく、目覚めたミロクは、あたかもゲーム内で滅亡させられた文明世界のミクロな一員となって放り出される。
 この世界でミロクは生きるための行動に出るのだが、彼のサバイバルは『ウォーキング・デッド』や『マッドマックス』のような、生死の境を危ういバランスで進んでいく、手に汗握るエンタテインメントとしては描かれない。ミロクや他の登場人物たちは、「世界を救う」というような目的や大義名分を背負って、こうなってしまった世界を修復したり、その原因に立ち向かうようなことはしない。何しろモロボシダンを名乗る登場人物は、ウルトラセブンに変身するヒーローではなく、ただの週刊誌の元記者なのだ。ここでは誰もヒーローのようには戦わない。目覚めたミロクに医者が残したメッセージのように、眠っているうちに災厄を回避しようとする。世界を悪くした原因には立ち向かわない。
 ここで描かれるカタストロフ後の世界は、3・11以後に陽炎のように現れた「災害ユートピア」を連想させる。例えば、ミロクがいっとき身を寄せる集落は、生き残った老人たちが大半を占めているが、しかしそこはヒリヒリするような切迫した空間ではない。「ある意味、カタストロフは奴隷を解放し、平等をもたらしてくれた」と、登場人物の一人が話すように、そこは老人たちから知識や技術を学ぶユートピアのようにも描かれている。
 その集落にある時、三万匹に一匹と言われる雄の三毛猫が迷い込むのだが、福を招く吉祥として受け入れられる。また、集落の畑から作物を盗む野盗を捕らえてみると、実は小学生の少女だったことがわかるエピソードがある。彼女は厳しく罰せられるのではなく、教師に諭されるように罪を赦される。貴重な食料にもなる猫を食べようとしたり、食料の盗人を痛めつけたりという、生死の限界に直面した人が必死でサバイバルすることが必要な世界ではないのだ。ミロクもまた、「カタストロフを生き延びたとしても、時がくれば、自分も死ぬ」という諦観にも似た感情を抱いている。この世界はカタストロフがもたらしたユートピアなのだ。だから、世界のリアリティは、むき出しの自然に放り出された人間のリアルに向かうのではなく、ある種のユートピアで生きるリアルとして描かれる。いつか死ぬということを前提にしながら、リアルな生死は巧妙に隠されている。これはどこかで見たことのある世界ではないだろうか。そう、そこはSNSで人が繋がる仮想空間、ミロクが興じていた「カタストロフ・マニア」のゲーム空間のリアリティに通じる世界だ。
 作中で脳科学者が次のように語る。
「複数の人間が集まれば、意見も立場も対立するし、ケースに応じて、プロセスも結論も変わる。条件を全て統一しても、サッカーや野球のゲームはどれ一つとして同じ展開にはならない」
 ミロクが放り出された「現実の世界」、つまり『カタストロフ・マニア』が描く世界は、複数のユーザーが変数として振る舞うゲームの世界に似ている。あるいは匿名の集団であるSNSがつくる仮想空間が、「消費者の意見」や「国民の意見」として実体を持ってしまう世界に似ている。
『カタストロフ・マニア』はハリウッド映画的なカタルシスを描かない。ヒーローの活躍がもたらしてくれる爽快感はない。読んでいる間のモヤモヤとした感覚は拭えない。しかし、それこそが作者の狙いなのだろう。
 仮想空間だろうが、現実世界であろうが、リアルな生死はユートピアを思わせる糖衣で優しく包まれている。しかし、その甘い衣の下には、絶対的な死が潜んでいる。冬眠状態を続けて、カタストロフをやり過ごすことができたとしても、人間の死亡率は一〇〇パーセントなのだ。
 カタルシス・マニアをやめることができない我々にとって、この小説は一見飲みやすそうに見えるが、実はアイロニーに満ちた苦い薬のようだ。だがこの劇薬を飲み、衣の下にある苦さを味わわなければ、目が覚めることはない。さもなくば、安全地帯で永遠にカタストロフにカタルシスを求める我々の狂熱(マニア)は治らないだろう。

 (こじま・ひでお ゲームデザイナー)

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