書評
2017年6月号掲載
新潮選書フェア新刊 書評
普通に生きる世界を取り戻そう
佐伯啓思『経済成長主義への訣別』
対象書籍名:『経済成長主義への訣別』
対象著者:佐伯啓思
対象書籍ISBN:978-4-10-603802-0
本書の問題提起は実に簡単なことで、普通の感覚、当たり前の感覚で生きていける社会をつくろうということである。
ところがそれが難しい。なぜなら現代社会も、私たちも、普通であること、当たり前であることを見失っているからである。それが近代以降の時代である。
たとえば著者は経済成長主義を批判する。経済成長が悪いといっているのではない。そんなものは社会づくりの指標にはならないにもかかわらず、経済成長が絶対的指標であるかのごとくなっている時代が異常だと述べているのである。経済成長をしなければいけない、そのためにはイノベーションが必要だ、グローバリズムも不可欠だ、そういう言説があたかも正しいことのように支配しているのが、今日という時代である。だが、それは正しい言説なのか。それが正しいことを誰も証明してはいない。だがそれを当然視してしまった時代が、われわれの時代なのである。本当は、資本主義的な経済成長は、われわれの生きる世界を破壊しつづけているのではないのか。はたしてイノベーションやグローバリズムは、私たちに豊かさや幸せをもたらしたのであろうか。
本書は、経済学にも造詣の深い社会思想家が書いた経済哲学の本である。人間とは何か、人はどう生きたらよいのか、人間が生きる「世界」とは何か。そういう問題意識をもちながら経済をとらえたとき、経済成長を絶対化してきた経済学の浅薄さがみえてくる。経済を数字でのみとらえる思考からは、数量化できないものは捨て去られる。しかし、数量化できないもののなかに、人間たちが求めている幸せはあったのではなかったか。そういう問いかけをしながら経済学を再検証すれば、参考になるのはこの本のなかで書かれているアリストテレスの経済のとらえ方であったり、『道徳感情論』とセットで読まなければいけないアダム・スミスや、「世界-内-存在」として人間の存在をみていたハイデッガーやハンナ・アーレントの哲学、社会のなかに埋め込まれた経済を求めたカール・ポランニーの経済社会学であったりする。
経済とは何かを根本からとらえ直し、普通の感覚、当たり前の感覚から遠ざかってしまったわれわれの時代の異常さを描きだす。この作業をへなければ人間らしさが回復できない。それほどまでに私たちの時代は破壊されてしまっているのである。ただし普通とは標準的であることではない。日々の営みに追われながらも、ふと自分の生きる世界を問い直す。そういう人間こそが、長い歴史を紡いできた普通の生き方をした者たちだと著者は考えている。
考えてみれば資本主義も近代的なものの考え方も、偶然性の影響を受けながらヨーロッパに生まれたローカル・モデルにすぎなかった。背景には中世キリスト教社会があり、戦乱に明け暮れたヨーロッパの歴史があった。それは絶えざる拡張を求めた歴史でもある。だがこのヨーロッパ・モデルに世界は巻き込まれた。さらに戦後になると、ヨーロッパ・モデルの亜種として生まれたアメリカのモデルに世界は飲み込まれていった。そして、この歴史を批判的にとらえなおそうとせずに、それが歴史の発展であるかのごとく位置づけてしまったとき、絶えざる経済成長を求めて自分の生きる世界が破壊されていく現実にさえ気づかなくなるほどに、人間たちはこの時代に飲み込まれてしまった。
だから著者は本書のなかで、根本的な問いを繰り返す。人間とは何か。人間の生きる世界とは何か。それはこのような問いを忘れてしまった経済学への批判でもあり、そのことを絶えず問いつづけるのが人間であるという「人間主義」の思考こそが、私たちが飲み込まれている現実から自由になる出口を用意していると、著者が信じているからでもある。とともに、少なくとも現在の日本のなかには、経済成長よりも幸せな関係を求める人たちがふえていることを著者が知っているからでもある。
読み応えのある本である。現実の経済がどのような壁に突き当たっているのかを読み取ることもできるし、本物の経済学とは何かを学ぶこともできる。経済学を突き詰めれば哲学になることを知ることもできるし、近代から現代の歴史とは何かを読むこともできる。経済成長主義やグローバリズムの虚構性を語りながら、その背後にある思想や人間たちの精神のすべてを描き尽くそうとした壮大な試みが本書である。
成長、効率、イノベーション、グローバリズムといった言葉に追い立てられている現実から自由になって、普通に生きる世界を取り戻そうという著者のメッセージは、はたして今日の人間たちに届くのだろうか。私は届くと思っている。
(うちやま・たかし 哲学者)