書評
2017年7月号掲載
紫の希望の灯
――滝口悠生『茄子の輝き』
対象書籍名:『茄子の輝き』
対象著者:滝口悠生
対象書籍ISBN:978-4-10-335313-3
あいだを少しあけて相手の顔が見られるように向き合っている親しさと、肩と肩が触れあっているのにたがいの表情は見えない近しさ。夫婦と呼ばれる男女は、日常のなかでこのふたつをごく自然に使いこなしているので、本質的なちがいに気づかない。親しさと近さを連絡する橋に不具合が生じたとき、はじめてそれまで見ていた風景に変化が生まれるのだ。しかし、不具合が解消されたとしても、その原因がいつまでたっても明らかにならないとしたら、両岸にあった感情は無傷のままでいられるだろうか。
こんなふうに書くとたちまちしらけてしまう答えのない問いに似た感覚を、滝口悠生はいつも目に見える形で、ユーモアも適宜まぶしながら愛おしそうに描く。ひとりの男の視点をとおして描かれる六篇と、その外に置かれたやや関連の薄い一篇からなる、おそらくは連作と呼んで差し支えないだろう本書『茄子の輝き』でも、その特徴は生かされている。
語り手の名は市瀬。時の流れに即して整理すれば、大学時代に知り合って一年ほど同棲していた伊知子と二〇〇六年に入籍、三年ともに暮らしたあと二〇〇八年の正月に離婚し、その年のうちに高田馬場駅近くの古いビルの四階にあるカルタ企画という、業務用機器の取り扱い説明書を制作している会社に職を得た。二〇一一年三月の地震の影響もあって会社が傾いたため駒込の玩具会社に転職し、最も新しい語りの現在においては、池袋の出版社で働いている。
物語の時空は一篇ずつ変更され、人間関係の細部や市瀬自身の記憶も六篇全体のなかで出し入れされる。とりあえずの軸は、カルタ企画に入社して三年目の一時期を描く、冒頭の「お茶の時間」だ。ゆるいのか厳しいのかわからないこの会社で働いているのは、社長を入れて十名。人間関係の大枠は、この一篇で把握できる。とくに重要なのは、離婚後の日々を明るく照らしてくれた、千絵ちゃんという女性である。一年遅れて入って来た、おかっぱ頭に丸顔の彼女は、会津出身の二十五歳。元広告代理店勤務で、バンド活動をしている恋人と同棲中である。市瀬は恋愛の対象にはならない、陽気な菩薩のような千絵ちゃんを眺めて幸福を感じつつ、たえず妻と過ごした日々をまさぐる。なぜ自分から去って行ったのかが、いまだにわからないからだ。どんなに時間を行き来し、どんな角度から検討し直しても、謎は解き明かされることがない。
結婚した年に妻と島根に出かけた貧乏旅行の思い出をつづる「わすれない顔」に、離婚の際、夫婦が共有している写真を市瀬がすべて引き取ったと語られているのだが、以後、彼はときどき元妻の写真を取り出し、旅ごとに編集したりして幾度も見直すようになり、やがて、写真のなかの妻の顔しか思い出せなくなっている自分に気づく。向き合い、抱き合い、すぐ傍にいた妻から親しさも近しさも消えうせ、交わした言葉も日記に書き残したものだけになっていくことの不思議。千絵ちゃんの表情や言動は、明確に思い出せる。しかしそれらを見ていた自分の感情はよみがえらない。反対に、妻を前にした感情は浮かんでくるのに、具体的な顔や声は空白なのだと、表題作「茄子の輝き」で語り手は言う。
狭い洗面台で仲よく横並びに歯を磨いているふたりが口を濯ごうとして場を譲りあい、ついおなじ方向に動いてしまったときのような互いの顔が見えない困惑と、「宇宙空間で衝突した物体同士が、無重力のなかで、その場所からも、お互いからも永遠に遠ざかり続けるみたいな」寂しさを抱えて、語り手は生きている。しかしふたりの表情は、べつの鏡のなかに、異なる姿で現れ出るのではないか。三十四歳になった市瀬は、「街々、女たち」でひとりの女性と出会い、「今日の記念」で再会する。緒乃という七つ年下の彼女の、いびつな茄子のふくらみをもつ明るさは、離婚の傷心と二〇一一年三月の揺れによって生じた彼の心の、いちばん脆い部分を支えてくれるような気がするのだ。鮫洲から品川までぶらつき、神社の境内で並んで撮った記念写真は、遠ざかりつづけるふたつの物体の距離を一挙に縮めて、艶やかな紫の希望の灯をともす。市瀬は、まだこの先、生き続けられるだろう。妻や千絵ちゃんの写真を見直さなくても、現実の彼女と歩き出せるだろう。そう信じたくなるあたたかさが、不通の橋のうえに漂っている。
(ほりえ・としゆき 作家)