書評
2017年7月号掲載
文字で描かれた一枚の絵に魅入られる
――ベルンハルト・シュリンク『階段を下りる女』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『階段を下りる女』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ベルンハルト・シュリンク著/松永美穂訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590139-4
ひとりの女性が全裸で階段を下りている絵だ。〈右足が下の段を踏み、左足はまだ上の段に触れているが、すでに次の動きを開始している〉。〈ぼんやりと描かれている階段と壁の灰緑色の背景の前で、その女性は浮遊するような軽やかさで鑑賞者に向かってくる〉。世界的に有名な画家の、長らく行方不明になっている作品だった。
『階段を下りる女』は、映画化もされたベストセラー『朗読者』で知られるベルンハルト・シュリンクが二〇一四年に発表した長編の翻訳だ。
語り手の「ぼく」はドイツ在住の弁護士。仕事のために訪れたシドニーのアートギャラリーで階段を下りる女の絵を発見したとき、彼のなかに四十年前の記憶がよみがえる。「ぼく」はドイツに帰らず、絵のモデルになったイレーネを探す。〈目前の予定のすべてにおいて、代理を立てることが可能だった。ただ、過去に関してだけは、代理を立てるわけにはいかないのだ〉と思ったから。
絵が描かれた当時、イレーネは二十代前半。グントラッハという四十歳くらいの裕福な男と結婚していた。グントラッハは画家のシュヴィントに妻の肖像画を注文する。年の離れた夫婦と画家の三角関係から派生した絵の所有権をめぐる争いに、新米弁護士だった「ぼく」は巻き込まれるのだ。「ぼく」はイレーネに恋をして、絵を手に入れることにも協力するが、彼女は黙って消えてしまう。
愛する人の裏切りに傷つきながらも立ち直り、妻子を得て、仕事でもまずまず成功した男が〈代理を立てるわけにはいかない〉過去と向き合う物語だ。イレーネはなぜすべてを捨てて絵を持ち去ったのか。本当のところ「ぼく」のことをどう思っていたのか。少しずつ謎が解かれていく。
ことが始まったのは一九六八年。世界各地で動乱が起こり、ドイツは東西に分かれていた。登場人物がいた西ドイツも「政治の季節」にあったことが垣間見えるが、あまり詳細には記述されない。「ぼく」が安定志向の男だからだろう。例えば学生時代の友人が反体制運動に関わり、弁護を依頼してきたときも、いったんは引き受けようとするものの、法律事務所にとってマイナスになる可能性を示唆されると助けることをやめるのだ。きちんと損得勘定のできる彼が、犯罪まがいのことに手を貸してまで守ろうとしたのがイレーネ。若き日に自ら選んだ逸脱の記憶は甘美なものだ。恋愛感情と結びついているのであればなおさら忘れられるはずがない。ただ、老人が失った青春を取り戻す話に留まっていないところが本書の真骨頂だろう。
夫と画家がもめていたころ、イレーネがひとりで「ぼく」を訪ねてくるくだりがいい。ふたりの男に奪い合われるというドラマチックな状況に置かれているにもかかわらず、彼女は〈よくある話〉と醒めている。そして自分の若さに対する疑念を打ち明け、「ぼく」に〈あなたは若くなるために、もっと年をとらなくちゃいけないのかもしれないわ〉と言う。若くなるために年をとらなくちゃいけないとはどういうことだろう? 不思議なセリフに引き込まれる。
「ぼく」とイレーネ、グントラッハ、シュヴィント。四人の男女の運命はドイツから遠く離れたオーストラリアで交差する。四十年ぶりの再会は、お互いに流れた長い時間を痛感させる。みんな多くのものを喪っている。とりわけ、二十代のころの自分の姿を絵画のなかに永遠に封じ込められているイレーネの変化は際立つ。男たちを翻弄した肉体は衰え、死の匂いを漂わせている。しかし、かつて恋した人の変貌がもたらすものは悲しみだけではない。
イレーネと過ごした十四日間、「ぼく」はさまざまなことを話す。彼女の本音を知って衝撃を受けるところもあるが、もしもふたりが一緒に生きていたらどうなったか、想像を広げる場面は切なかった。ありえたかもしれないもうひとつの人生を語るときににじむ感情が、後悔ではなく喜びだからだ。過去に遭遇したはずの「ぼく」が、思いがけない未来を見出す終盤には心を揺さぶられる。静謐だが鮮烈な恋愛小説だ。
(いしい・ちこ 書評家)