書評

2017年7月号掲載

幕見席でのおしゃべりのように

矢内賢二『ちゃぶ台返しの歌舞伎入門』

松田奈緒子

対象書籍名:『ちゃぶ台返しの歌舞伎入門』
対象著者:矢内賢二
対象書籍ISBN:978-4-10-603811-2

 今から28年前、平成元年。歌舞伎座の三階席に著者の矢内さんは座って芝居を見ていた。見続けて今、この本を書かれた。
 偶然にも同じ頃、私も三階席、一幕見席に陣取って歌舞伎の世界にどっぷり漬かっていた。
「はじめに」で矢内さんが書いておられるとおりあの頃は若い見物人などほぼ見かけず、私も他の年配のお客さまがたにお菓子やお弁当、チケットなどいろいろいただいた。
 建て替え前の歌舞伎座といえばエスカレーターもエレベーターもないアンチバリアフリー。最上階の一幕見席など、登っても登っても辿り着かないトライアスロンなみの難所。願掛けでもできそうなくらい急勾配の階段だった。
 ある時、一幕見席のチケットを買おうと列に並んでいたら年配のご婦人に、「悪いけど私の分も席、とっといてくれない? 私アシがいたくて階段のぼんのたいへんなのヨ」と頼まれた。
 あいよガッテンと席をとって待っていたものの、幕開けを知らせるブザーが場内に響いても、いっこうにお見えにならない。なにかあったかとハラハラしていたら、お弁当をふたつ手にしてご婦人、悠々と現れて、「私、助六弁当が好きなんだけどね、若い人はパンがいいかなと思って。はい、お駄賃」とサンドウィッチ弁当を私にもくださった。
「若いのに歌舞伎に興味があるなんて珍しいわねぇ」を皮切りに、三階席、幕見席に行けばいつも、見物の大先輩がたからいろんなことを教わった。
私が時代的に間に合わず見ることが叶わなかった名優たちの舞台姿や名人芸、歌舞伎筋書きの約束事、基礎知識のあれこれ。ただ面白く、楽しくお話ししていただけだったのに、気づけば歌舞伎を見る際の下地と心構えをつくってもらっていた。
 矢内さんもそうだったのかな、肩が凝らない『ちゃぶ台返しの歌舞伎入門』を読みながらそう思った。読みやすいのに浅くなく、歌舞伎を見るときの大事なキモがしっかり入ってくる。
 歌舞伎に興味があるかた、歌舞伎を見始めたばかりのかたにもおすすめだけど、私のようにわかってるつもりの歌舞伎ファンにもおすすめします。戦隊モノと歌舞伎の見得を考察したユニークな視点に爆笑したりうなずいたりしながらも発見が多々あり、気がつけば歌舞伎の楽しみ方をアップデートしてもらっていました。
「歌舞伎が好き」というと必ず返ってくる世間の言葉、「高尚」「お芸術」というイメージをひっくり返し、歌舞伎本来の「楽しさ、おもしろさ、美しさ」を伝えるこの本。堅苦しさがすこしも入らぬ、まるで幕見席でのおしゃべりのよう。気がつけばあなたも歌舞伎を好きになっているはず。
 ちょっとまって、もしや......これが名人芸?
 歌舞伎座の売店にたんと積んでもらって、筋書きと一緒に売ればよいのではないかな。
 重版出来! お祈りしております。

 (まつだ・なおこ 漫画家)

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