書評・エッセイ

2017年7月号掲載

永遠の青年の見た古都

――葉室麟『古都再見』

澤田瞳子

対象書籍名:『古都再見』
対象著者:葉室麟
対象書籍ISBN:978-4-10-328014-9

 いきなり身の周りの話題で恐縮だが、先日、後輩である研究者が緊急入院した。幸い、命に別状はなかったものの、久々に私が古巣である大学研究室を訪ねてみると、ゴールデンウィークを含めた二週間を病院で暮らした彼女は、元々細い身体がますますほっそりしていた。
 私は心臓に軽い不具合があり、常時、ニトロ錠を持ち歩いている。それだけに後輩の入院を決して他人事と思えず、居合わせた教授も交えて、しばしそれぞれの持病について情報交換したのだが、己の学生時代、病気の話で盛り上がる教授や講師たちは、ひどく年上に見えた。それから二十年を経、こうして自分が似た話をするようになると、「いつの間にかひどく遠くまで来たな」という不思議な感慨がある。
 人間はみな年を重ねる中で、様々な「初めて」に出会う。初めての恋、初めての就職、初めての結婚......しかし長い生涯を総括すれば、我々がもっとも激しく戸惑い、長年にわたって戦い続ねばならぬ「初めて」は、「老い」ではなかろうか。
 葉室麟氏が京都に仕事場を構えられたのは、二〇一五年の二月。満六十四歳の誕生日を迎えられた直後とうかがっている。
 現代社会において、六十代は決して老齢ではない。しかしそれにもかかわらず、葉室氏が京都を通じ、己を顧みられる姿には、常に老いと厳しく向き合う影がある。
 本作『古都再見』は「週刊新潮」に掲載された当時、「幕が下りる、その前に」という副題が添えられていた。これはこのエッセイの冒頭、「薪能」の末尾において、葉室氏がご自分の来し方を顧みられ、「還暦を過ぎてから、何かゆっくりと頭上から下りてくる気配を感じるのだ。......幕が下りるその前に見ておくべきものは、やはり見たいのだ」と記されたことに起因する。
 とはいえここで記しておかねばならぬのは、本作においては、行間に見え隠れする老いの影が、決して人生の儚さや無常を声高に叫ぶものでないことだ。ご自分のこれまでを――もう一歩踏み込む傲慢が許されるなら、己の残された命数を冷静に捉えておられる葉室氏は、その冷徹な目を以って、日本の古都たる京都を「見てやろう」となさっている。そして豊富な知識に裏打ちされた考察を通じ、過去の歴史はおろか現代のあり方にまで思いを馳せられる姿勢には、貪欲なまでの生への渇望すら感じられるではないか。
 昨今の京都ブームもあって、書店には現在、数多くの「京都本」が溢れている。しかし氏がここで描こうとなさったのは、京都を訪れた者が容易に眼にし得る有名社寺の姿ではない。
 葉室氏は京都の歴史の中に、どうしようもない煩悶を抱えて生きた、幾多の人間の姿を見る。そして古今変わらぬその営みの奧に、現代社会を生きる我々の苦悩を、どうしようもない矛盾を――更には、生まれ、老い、死んで行く、永久不滅の人間の営みまでを感得なさる。
 そう、これはいわゆる「京都本」ではない。京都という一つの町を切り口に、人間のありようを模索した人生の書なのだ。
 富永太郎、中原中也、梶井基次郎......本作には若くして世を去った文人が多く登場するが、彼らの生涯について葉室氏は、「青春時代の煩悶と還暦を過ぎて老年期にさしかかっての懊悩は、先の見えない真っ暗な闇の道を歩む感覚が似ている。年齢を重ねたからといって、穏やかな安定のうちにいるわけではない」と記す。それゆえであろう。氏は本作の中で決して知ったような顔で、「人生とは」などと説かれはしない。幕が下りるその前にしなければならぬことがあると足掻き、歴史をどう捉え、如何に描くかと自問自答なさる姿は、まさに青年のように若々しく、直向(ひたむき)である。
 葉室氏は古の文人たちが青春を過ごした京都を、第二の青春の場として選ばれ、新たな煩悶に自ら身を投じられた。そう、あえてここで極言すれば、本作の作者は直木賞・司馬遼太郎賞を受賞し、圧倒的な筆量で歴史小説界を牽引し続ける葉室麟氏ではない。限られた生のただなかを駆け、貪欲なまでに人間の真実の姿を追い求める一人の「青年・葉室麟」こそが、この本の真の作者なのだ。
 この純粋で直向な永遠の青年が、これから何を見、何を考えられるのか。もしかしたらいつかは京都での懊悩を終え、また別の町に行ってしまわれるのか。
 同じ京都住まいの私としては、今のうちからそれが楽しみであるとともに、ひどく寂しくてならないのである。

 (さわだ・とうこ 作家)

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