書評
2017年7月号掲載
今月の新潮文庫
巨大な一筆書き
――佐伯一麦『渡良瀬』(新潮文庫)
対象書籍名:『渡良瀬』(新潮文庫)
対象著者:佐伯一麦
対象書籍ISBN:978-4-10-134217-7
いま最も偉大な私小説の作家といえば、佐伯一麦だろう。
新聞配達に精を出す少年を主人公にした『ア・ルース・ボーイ』(三島由紀夫賞)、蔵王近くの町で草木染め作家の妻との静かな日々を描く『遠き山に日は落ちて』(木山捷平文学賞)、仙台市内を見下ろす高台に住む作家と友人たちを活写する『鉄塔家族』(大佛次郎賞)、草木染め作家の妻とノルウェーで過ごす作家の日常を捉えた『ノルゲ』(野間文芸賞)、認知症を患う父親の介護と東日本大震災を見据えた『還れぬ家』(毎日芸術賞)と名作をぞくぞくと世に送り出している。
佐伯一麦は「私小説を生きる作家」といわれ、小説の中に作家の人生が赤裸々に描かれてあるけれど、佐伯文学が豊かなのは物語によっては一人称ではなく三人称を使ったり、多視点を用いたりと自由度が高いことである。『渡良瀬』の主人公も二十八歳の南條拓という男の三人称一視点で通される。
南條は東京での電気工としてのキャリアを捨て、茨城県西部の町で、配電盤製造工場の一工員として働き始める。七歳の長女が緘黙症、二歳の長男が川崎病にかかり静かな所で養生させたかったからである。同じ電気とはいえ馴染みの薄い配電盤の仕事であったが、一つ一つ技術を習得し磨いていくのは楽しく、妻との冷淡な関係を忘れられる時間だった。
関係が冷えたのは、南條が電気工のかたわら家庭生活を小説に書いたからである。最も身近な例を通して普遍的な人間像に迫ったのに、妻は、自分たちのことは書かないでくれの一点ばりだった。三年前に新人賞をとり、一冊上梓したが、仕事が忙しいうえに妻の言葉もあり、書けない状況だった。
佐伯ファンなら、東京での電気工の日々を描いた短篇「端午」「ショート・サーキット」の後の、茨城県古河市での生活を描いた短篇「古河」の長篇化だと気づくだろう。文芸誌「海燕」に長らく連載されたものの雑誌の休刊で途絶した作品で、二十年ぶりに完成させた。古河の暮らしの後、家族は作家の故郷の宮城へと戻り、新生活を送るものの離婚をすることになる(その過程を描いたのが傑作『木の一族』だ)。
もちろんそれは佐伯一麦という作家の人生であり、『渡良瀬』を単独で読んでもいい。いや、むしろ単独で読んでほしいがゆえに毎回主人公の名前を変え、人称を変えているのだろう。そう考えるなら、舞台となる一九八八年の秋、昭和天皇の重体のニュースが流れて、崩御される翌年までの数カ月、昭和から平成と移る過渡期に、一人の工員がどのように生きて、どのように子供たちの回復を願い、家庭での団欒に救いを求めたのかの話は、とても貴重だろう。大きな時代の転換期が小さな家の転換期と比較され、不安がはりつく日々の暮らしの危うさが、より具体的に捉えられてあるからだ。
とりわけ印象深いのは、配電盤の工員としての生活だろう。読者に馴染みのない名詞が多数出てくるけれど、それでも、引き付けられるのは、仕事の一部始終を正確に捉えているからである。生きることの手触りをひとつひとつ学ぶ、それが佐伯一麦の小説であるけれど、ここではそれが配電盤の仕事になり、配線の仕事が"この世界の中に、巨大な一筆書きを描くこと"であるという感覚を理解することができる。電線を扱いながら、絵画を想像し、一日の終りにクラシックを聞いて慰めを得る職人の生活が、自分と同じと考えられるようになる。家に帰れば心を通わすことが難しくなった妻がいて、緘黙症の長女と元気な次女と川崎病の幼い息子がいる風景は特殊かもしれないが、配偶者や子供たちとの健やかな生活を思う父親の気持ちは誰にとっても親しいものであろう。
佐伯一麦の読者なら、ここで描かれている夫婦関係がやがて破綻し、別々の道を歩むことになることがわかるけれど、本書を私小説作家の自伝の一つとして考えずに、完成された小説として見れば、ここで描かれる家族の別の将来も見えてくるし、明るい未来を思わずにはいられない。それほど日々無事にすこやかに、心おだやかに過ごさんことを祈らずにはいられないほど、誠実で、ひたむきな一人の男の姿がある。仕事を確実にこなし、あらたな発見をして、さらなる技術をみがき、充足を得る日々の手応えがある。家族を養い、家族に愛されようとしながら、精一杯、日々を大切に生きていく一人の男の姿には、誰もが胸をうたれるのではないか。
(いけがみ・ふゆき 文芸評論家)