書評

2017年8月号掲載

その名は、文学。

――上田岳弘『塔と重力』

倉本さおり

対象書籍名:『塔と重力』
対象著者:上田岳弘
対象書籍ISBN:978-4-10-336734-5

 名前をつけるということ。
 結局、解釈とはその積み重ねだ。いうなれば小説とは、ヒトが「世界」に対して長い長い名前をつけようとする試みを指すのだろう。
 名前と引き換えに喪われる何か。解釈した瞬間に損なわれてしまう何か。それでも、私たちの手元に残るはずだと信じたい、何か――。『塔と重力』は、祈りにも似た切実な予測と、著者自身の実存を元手に編まれた渾身の作品集だ。
 表題作の語り手の〈僕〉は、予備校の仲良しグループと出かけた神戸で震災に遭い、倒壊したホテルの瓦礫に生き埋めになった経験を持つ。幸い命は助かったものの、〈僕〉が淡い恋心を抱いていた相手・美希子はなす術もなく亡くなってしまう。それから二十年後、Facebook を通じて大学時代の友人・水上と再会したところから物語が動き始める。
 この水上という人物がちょっと曲者で、生き埋めになった当時のことを〈僕〉から伝え聞いて知っている彼は、ほどなくして「美希子アサイン」という謎のセッティングを繰り返し仕掛けてくるようになる。これは相手の女性の了解も得ないまま勝手に「美希子」役を割り当て、あくまで「美希子」として〈僕〉に紹介するという、悪ふざけにも見える頓狂な企画。最初は面食らった〈僕〉も、変則的な合コンだと思って気軽に楽しむようになる。ところが十一番目に紹介された「美希子」が、偶然にもかつてのセックスフレンド・葵だったことから(!)、〈僕〉の中の「美希子」の定義を含め、現実認識のありようそのものが揺らいでいく。
 加えて水上の特徴を表すのが「神ポジション」なる巨視的なトークだ。卑近な話題のはずなのに、「人類」や「世界」といった、やたら大仰な言葉を用いて物事を説明したがる彼の語りは、いつしか周囲に伝播し、〈僕〉はもちろん葵までもがマクロの視点を露わにし始める。だがそれは、なにも作中の水上たちに限ったことではないのだ。インターネットを通じ、個人の視界がとめどなく拡張される現代においては、もはや「神ポジション」がほとんどの人間にとって所与となりつつある。〈「多分問題なのは、わかってしまうことと、できることがすごく乖離していることね」〉。神の視点に近づきながら、しかしとても不自由そうに物語る葵の姿は、目下の人類全体が抱える闇を示唆している。
 仮に、ヒトの存在がパターン化できず、自分自身との関連性、すなわち「つながり」そのものとして捉えるべきものだとしたら。水上のいうとおり、「美希子」が再び生成される可能性だって否定できない。その真偽をなぞるように、作中ではSNSという装置が意識的に強調されている。では、当の美希子と〈僕〉との「つながり」はどうだったかというと、これがきわめて茫漠としているから難しい。〈たぶんあの地震さえなければ、初体験の相手は美希子になるはずだった〉。けれど、〈ああいう終わり方でなければすぐに忘れてしまったはずだ〉とも思う。すくなくとも〈愛ではなかったということ〉――言い換えれば、「美希子」とは現状において、別の名前と交換不能な「何か」でしかあり得ない。しかし、その「何か」こそが、まさしく進化の行きつく先でヒトがヒトであり続けるための最後の砦なのだ。
〈僕は美希子を愛してはいなかったし、これまでに他の誰かを真剣に愛したこともない〉。序盤に出てくるこの一文は、そっくりそのまま終盤でも繰り返される。だが、物語を読み進めるうち、一度目と二度目で意味合いが変わっていることに気づくはず。それは私たちの中の「解釈」のありようそのものが――世界や現実との対し方そのものが更新されたことを意味しているのだろう。
 本書には表題作の他、「重力のない世界」「双塔」の二作の短篇が併録されているが、タイトルが示すとおり、作中では「重力」「塔」という共通するキーワードが用いられている。しかし、それらは互いに響き合いながらも、けっしてぴたりとは重ならない。ほんのすこしずつその輪郭をずらしながら、言葉の領域を巧みに拡張することで、決定的な定義が下されることを拒んでいる。これまでの上田岳弘の著作も同様だ。「肉の海」、「輪廻転生」、「神の視点」、そして「私」。モチーフは繰り返されながら、単一の解釈を退け、豊饒なる混沌を担保する。それは、とどめようのない進化のレールの上に置かれてしまった人類が、言葉というものを用いて挑みうる、乾坤一擲の戦いなのだ。

 (くらもと・さおり 書評家)

最新の書評

ページの先頭へ