書評
2017年8月号掲載
特別寄稿
ここに立つのは私ではなくて 永六輔さんへの弔辞
昨年七月七日に亡くなった永六輔さんを、同じ年で、六十年の交友があった徹子さんが偲ぶ――。
感動を呼んだ弔辞の全文掲載。
永六輔さんが亡くなって、ちょうど一年たった。
私は、二年前に出した『トットひとり』という本で、森繁久彌さんや渥美清さん、向田邦子さん、森光子さん、沢村貞子さん、杉浦直樹さんたちの思い出を書いたのに、永さんについては、少しだけしか触れなかった。もちろん、これからもまだ、たくさん会ってお喋りしたり、もっといろんな面白いことを教わったりできると信じていたからだと思う。
亡くなった翌月、青山葬儀所で開かれた「六輔 永(なが)のお別れ会」で、私は発起人代表の挨拶をした。こういうものは、その時、その一部分だけがテレビなどで報じられるだけで、あまり残るということがない。本に書かなかった替りというわけじゃないけど、ここで文字にしておこうと考えた。
この弔辞(?)の中に出てくるエビチリの話は、『トットひとり』で、渥美清さんとのエピソードとして書いた。だけど、永さんとの大切な記憶にもつながっているので、このままにしておきます。
*
永さん。
永さんは、私が死んだ時に葬儀委員長をやると仰っていらしたのに、思惑が外れて申し訳ありませんでした。
六十年間、永さんとはお友だちでしたけど、一度も喧嘩したことはありませんでした。本当に仲のいいお友だちと言っていいと思います。
亡くなる四日ほど前とその次の日に、永さんのところへお見舞いに行きました。(行かない方がいいかな)と思ったんですけど、でも、やっぱり一応行ったんです。
そしたら、永さんは、ずっと寝ていましたけど、私が「永さーん」て、大きい声で言うと、パッと目を覚まして、私のことパッと見て、私を見ながら「わはははは」と笑って、また寝ちゃいました。だからまたしばらくして、「永さーん」て呼ぶと、また起きて、私を見て「わはははは」って、うれしそうに笑って、また寝ました。三回か四回、それをやったんですけど、そのたびに永さんが起きて、大きい声で笑うから、疲れるといけないと思って、その日はもうやめて、また次の日に行って、「永さーん」て呼んだら、また私を見て笑って、「わはははは」って、本当に永さんの、いつものラジオと同じような大きい声で笑って、それでまた寝ました。そういうのを、その日も四、五回繰り返して、それでお別れしました。その次の次の日だかに亡くなった、というお話を聞きました。
今日は、なるたけ楽しい話がいいというので――まあ、ずいぶん、ほうぼうで永さんのお話は、してきちゃったんですけど、あまりお話ししていなかったことを思い出しました。永さんのアゴが外れた話は、ご存じの方も多いと思いますけど、若い方はあんまりご存じないかもしれないので、ちょっとお話しします。
ある日、永さんのアゴが外れました。夜中に原稿を書いていて、あくびが出たので、あくびを止めようと思って、ガーンと頬っぺたを引っぱたいたら、ガクッと外れちゃったんです。どうしたらいいかわからないので、電話帳で整形外科を調べたら、原宿にあるとわかったものですから、とにかくそこまで行こうと思って、外へ出てタクシーを捕まえたんですけど、永さんはまだアゴが外れるとモノが言えないってことに気がついてなくて、運転手さんに「あわわわわわ、あわわ、あわわ」と言ったので、運転手さんはオバケだと思って「降りてください」って断られたんです。また家に戻って、今度は紙に「アゴが外れた。驚かないで」って書いて、寝てる奥さまの昌子さんに見せたら、昌子さんはお利口な方ですからすぐわかって、「一緒に行きましょう」って言って、その間も永さんは一生懸命、説明しようとするんだけど、ずっと「あわわわわわ」って。そこで全然ものが言えないんだってことが、永さんにもわかったそうです。
それで整形外科の先生に、夜中に起きてもらって、アゴを診て頂いたら、アゴを入れるのはひどく乱暴な治療なんだそうですね。最終的には、「寝てください」って言われるまま床(ゆか)へ横になったら、先生の足で首のあたりを押さえられて、思いきりアゴをエイヤッとやられたらガクッて入って――元に戻った顔を見た先生が「あ、永さんだったんですか」って言ったって。それがオチになってるんですけど、永さんがこの話を何回もしてるうちに、どんどんアゴが外れやすくなっちゃって、気を付けないとすぐ外れるので、なるたけ外れないように注意しているんだって仰っていました。
若いころ、「夢であいましょう」に出ていたころの私たちは、渥美清さんでも(坂本)九ちゃんでも、E・H・エリックさんでも小沢昭一さんでも誰でも、たいへん仲がよかったんですけど、NHKに出ていたものですから、有名になるのは早かったけど、お金がなくて、みんな貧乏でした。でも、たまには中華料理くらいは食べたいよねというので、みんなで中華料理を食べに行ったんです。渥美さんが「おれ、エビチリ食べたい、どうしてもエビチリ食べたい」というので、エビチリを頼んだんですが、やってきたのを見ると、どう見ても、みんなの頭数からしてエビが少ないなって私は思ったものですから、パーッと計算して、「一人三個!」って言ったんです。「三個よ! 三個以上食べたら絶対に駄目だから」って私が言うと、隣で渥美さんが、「いつか、俺がいっぱい働いて、数えなくてもいいように食わしてやるからよ」って言ってくれて、考えてみると、その渥美さんは本当に後の寅さんのようでした。
その時、永さんが「いや、今がいちばん幸せなんだよ」って言ったんです。「年取って、ものがロクに食べられなくなって、エビを数えたりしなくてもいいかわりに、いっぱい余らせて、あまり食べられなかったっていう方が不幸せじゃないか。今みたいに、みんなで『一人三個よ!』なんか言って食べるのが、いちばん幸せなんだよ」って、あの時、みんなまだ二十何歳でしたかしら、渥美さんがもう寅さんみたいなら、永さんも後の『大往生』のようなことを、もう仰っていたんだなって思います。
本当に永さんは私に優しくして下さいました。そして、何かにつけて「ここに渥美清がいればね。一緒にいたら楽しいのにね」と、後々まで、よく言っていました。最後に「徹子の部屋」に出て頂いたのは今年(二〇一六年)の初めでしたが、やはり「ここに渥美清がいればね」って、どういう訳だか知らないけど、そんなふうに仰っていました。その時の「徹子の部屋」には、大橋巨泉さんと一緒に出て下さって、その御二方が、まだ半年もたっていないのに、日を追うように亡くなってしまったことは、とてもつらいことです。
永さんとは、六十年もの長いおつきあいなのに、たいがい笑いあっている時しかなくて――ちょうど今年で六十年なんですよ。私がディズニーの日本語版の吹き替えのオーディションを受けたら、あれは「わんわん物語」だったと思うんですけど、もうちょっとのところで私が落ちたんですね。そしたら、ミスター・カッティングというディズニーの製作の人が、「徹子を落として本当にすまなかった」というので、お詫びのしるしに渡してくれと、アメリカ製の赤いハンドバッグを永さんに託したんです。
当時、永さんは三木鶏郎さんの事務所にいて、ディズニーの吹き替えをやる人たちを探す、キャスティングの仕事もしていたらしいんです。それで、永さんは赤いハンドバッグを持って、NHKで「ヤン坊ニン坊トン坊」をやっている私のところへ会いに来てくれました。私は、それまでにNHKでさんざん、おろされていましたから、ディズニーのオーディションに落ちたこと自体は全然平気で、まだ日本では珍しかったハンドバッグを喜んで貰ったんですけど、永さんのことを単なるお使いさんだと思っていました。そんな初対面でした。後になって永さんから、「憶えてる? あの赤いハンドバッグを渡したのは僕だよ」って聞きました。それが昭和三十一年、今からちょうど六十年前のことです。私は芸能界に入って六十二年になりますけど、そのほとんどの時間をお友だちとして過ごしてきました。
それなのに、私は永さんと、一回だけ奢って貰ったことがあるだけで、一緒にご飯を食べたことが本当にないんです。たぶん永さんは、ああいう方ですので、一緒にご飯を食べたりするのを、なんか嫌がってるみたいなところがあって、私は(やっぱり、キチンとしたところでだけ会いたいのかな)と感じていました。
一回だけ奢って頂いたというのは、私が鹿児島で芝居をしていましたら、フラッと永さんが会いに来てくれて、昼間の公演が終った後だったせいか、「めし食う?」って言ったんです。私は(永さんが食事に誘ってくれるなんて、珍しいな)と思って、「行く、行く」って答えたら、永さんが「ネギめし好き?」って聞くんです。私は「うん」と言ったんですけど、ネギめしがどんなものか知らなかったので、想像して、きっと細いお葱がいっぱい乗っかってる、なんか美味しいものなんだろうなと思って、永さんについて行きました。そしたら、店先に葦簀(よしず)が張ってあるラーメン屋さんみたいなところに連れて行かれまして、しかもそのラーメン屋さんが昼間なのに閉まっていて、永さんはドンドンドンって入口を叩いて、わざわざ開けてもらっているんです。
ようやく出てきたおばさんに、「黒柳君にネギめし、食わしてやってよ」「はいはい」って、その出てきたネギめしを見ましたら、ラーメンの上に乗せるお葱ありますよね、よく切れてなくて終りの方がくっついちゃったりしてるようなやつ。あれをご飯の上に乗せまして、ラーメンのおつゆありますよね、ラーメンのスープ。あれをその上からかけるだけ。それが永さんの言うところの「ネギめし」でした。
もちろん不味くはないんですけど、芝居が終わって、せっかく鹿児島で会ったのだから、もうちょっと美味しいものを食べたいなと思って、永さんに「ねえ、もうちょっと美味しいものないの、なんか」って聞いたら、「こんなうまいものないじゃないか」と叱られそうになったので、「じゃ、これでいいです」って、それだけ食べたことを憶えています。
これ以外に永さんにご飯を奢って貰ったことも、私が奢ったこともないように思います。六十年も一緒にいて、ご飯を食べたことがないっていうのは、ずいぶん珍しい関係だと思いますね。
私は、永さんに叱られたことがありませんが、一回だけ永さんが怒ったのを見たことがあります。二十五年くらい前、中村八大さんが急に亡くなったというので、私と永さんは、とにかく急いで八大さんのお家へ行ったんです。夜中でした。八大さんの奥さまとお話をして表に出てきたら、もうマスコミの人たちが待っていました。
永さんが十メートルくらい先を歩いてて、同じ車に乗って帰る私は後ろから、黙ってついて行っていました。そこへマスコミの人がなんか言ったと思ったら、とつぜん永さんが大声で「ばかやろー、あたりまえじゃないか!」って、ものすごく怒り出したので、私は何事かと走って行って「どうしたの?」と聞いたら、永さんに「八大さんが亡くなって、お悲しいですか?」って聞いたんだそうです。それで永さんが怒って、余計に何だか気持ちに収まりがつかなくなっちゃって、一緒に乗った自動車の中で、私も永さんも、ずっと泣きながら帰ったのを憶えています。それから永さんは長いこと、八大さんの遺志を継いで、世界中の日本人学校を廻っていました。八大さんのお父さまが中国で日本人学校の校長先生をしていたこともあって、八大さんが生きている時から二人でやっていたことなんですが、永さんひとりになってからも、ずいぶん、いろんな外国の日本人学校へ行ってらっしゃいました。
......いま私、この祭壇の三枚の写真を見てて思ったんですけど、それぞれ永さんの二十代、五十代、最近の写真ってことですが、真ん中のラジオマイクの前にいる写真を見ると、五十代の頃の永さんは、本当に見場(みば)がいいなと思いますね。その頃は、あんまりそうは思わなかったんですけど、あらためて見ていると、(こんなにハンサムだったんだなあ)って思います。
永さんが、昌子さんを亡くされた後、「講演で『僕は黒柳君とは結婚しませんからね!』って言うと、みんながワーッて笑うんだよ」とよく言っていまして、私は「そう」なんて答えてたんですが、しばらくすると、「あれで受けなくなったんで、このごろは『黒柳君と結婚します!』って言うんだ。それで、またワーッて受けるんだよ」って。それで私が「でも、あなたとは結婚しないと思う」と言ったら、永さんのお嬢さんも「結婚、駄目だと思います。二人で朝から晩までしゃべって、どっちも相手の言うことを聞いていないと思います」って言われたので、(やっぱり、そうか)と思いましたけど。
だけど、永六輔さんみたいな難しい人と、あんなに長く結婚していらした昌子さんは、本当にいい奥さんだったんだと思います。もう、あちらで昌子さんにお会いになっていると思いますけど、それがいちばん、永さんが待っていたことでした。昌子さんが亡くなってから、十四年半も永さんはひとりで暮らしました。私は、永さんがひとりで暮らしてて大丈夫かなって心配してはいましたけど、何か持って行って、食事を作ってあげる、なんてこともないままでした。
それこそ、「永さんと結婚しようとは一度も思ったことはありませんでしたか?」なんて、私にお聞きになる方もいるんです。そういうことは、全然なかったです。でも、本当にいい、お友だち以上の――何て呼ぶのか、何て言っていいのかわからないんですけど、よく同志とか戦友とかって、みなさん仰いますけど、そういうのでもなくて、やっぱり心からの......何て言うのかしら? 決して、永さんとは心からわかりあってはいなかったんですよ。こんなに長く話してきたのに、お互いによくわかっていないんじゃないかなあ、って思う時もあったんです。それでも、ずっと仲よくしてきて。
永さんは「徹子の部屋」の最多出場者でもいらっしゃって、三十九回も出て頂いて、その度にいろんなお話をして下さったんですが、私に面白い話をするためにと、一生懸命、駆けずり回って、新しい話をいつも仕入れて下さっていたんです。
こんなに長い話をするつもりじゃなくて、「五、六分で」というお話でしたので、もうこれでやめることに致します。
永さん、私はこれからの人生について、あと十年は「徹子の部屋」を続けよう、いま番組が始まって四十年なので、五十年までは「徹子の部屋」をやろう、と思っています。だけど、はっきり言って、永さんがいらっしゃらないこの世の中は非常につまらない、とも思っています。本当に、永さんが亡くなったのは、いろんな方がこのところ続けて亡くなりましたけど、〈最後の一撃〉というふうに私は感じています。
でも永さん、どうぞ私たちを見守って下さい。あなたが教えて下さったこと――なんて言うとお勉強みたいですけど、そうじゃなくて、あなたが教えて下さった面白いこと、そして「夢であいましょう」などで、あなたがお書きになった歌、そういったものを私は忘れないようにして生きて行きます。あなたが本当に守ろうとした子どもたちが、これから幸せに生きて行ってくれればいいと、そう願ってもいます。
永さん、あなたが私の葬儀委員長をやるってことになっていたのですから。ここにこんなふうに私が立っているはずはなかったのですから。私でなく、永さんがここに立つ予定だったのですから。本当に私、悲しい、って思っていますよ。
永さん。六十年間、いいお友だちでいて下さって、本当にありがとうございました。心からお礼を申し上げますし、永さんの優しさにも心から感謝しています。ご冥福をお祈りしています。「さよなら」というのも変なので、どうせ近いうちにお会いすると思いますので、そのときにまた。じゃあね。
(於・青山葬儀所/二〇一六年八月三十日)
この一文を新たに収録した新潮文庫版『トットひとり』が十月末に刊行されます。
(くろやなぎ・てつこ 女優)