書評
2017年9月号掲載
『ルビンの壺が割れた』刊行記念特集
刺激に満ちた破格のデビュー作
――宿野かほる『ルビンの壺が割れた』
対象書籍名:『ルビンの壺が割れた』
対象著者:宿野かほる
対象書籍ISBN:978-4-10-101761-7
全部で一六〇ページに満たない小説である。十分に一息で読める分量だ。しかも一息で読んでしまうように書かれている。であるが故に、著者のその技に身を委ね、是非とも一気に読んで戴きたい。そうすることで、本書を最大限に堪能できるだろう。
それにしても、『ルビンの壺が割れた』とは、思わせぶりなタイトルだ。"ルビンの壺"は、本書の表紙をご覧になれば思い出して戴けるだろうが、二人の人物が向き合った横顔にも見えるし一つの壺にも見えるという図形だ。考案者の名をとって"ルビンの壺"と呼ばれるようになった。その壺が割れた、とはどういうことか。壺は割れた瞬間に壺以外の何物でもなくなる。言い換えるならば、"割れた壺"として実在してしまう。これはすなわち、当初の図形から二人の人物を消し去ることになってしまうのだ。
そして――本書には二人の人物が登場するのである。
水谷一馬は、フェイスブックで歌舞伎に関連するページを見ているうちに、未帆子を見つけた。三十年近くも会っていないが、その名前と、写真に写っていたいくつかの情報から、一馬は彼女が自分の知る未帆子に違いないと確信を得たのだ。そして彼は未帆子にメッセージを送った......。
ルビンの壺の一方から一方へ、フェイスブックを介して送られたメッセージで、この物語は始まる。
「あまりの懐かしさについこうして長文のメッセージをお送りした」と書いた一馬は、そのメッセージのなかで「お返事はもちろんないものと承知しています」とも記している。その理由として彼は、未帆子が二十八年前に亡くなっており死者からの返事はあるはずもないと綴った。どういうことだろう。一馬が見つけたという写真は、二十八年以上前のものではなく、近年のもののようだ。未帆子のプロフィールページをフェイスブックで見つけたとも書いている。しかしながら、未帆子は二十八年前に死んだと一馬は明確に記しているのだ。矛盾している。しかもだ。一馬はその相手に対してメッセージを送ったのだ。いったい何がどうなっているのか。
冒頭からグイと読者を惹きつける小説である。惹きつけておいて、手のひらで転がす。その転がす様の一端は、二通目のメッセージで早くも示される。前述の疑問点に対しては、十頁目であっさりと真相が明かされるのだ。読者を作品世界に引き込んでしまえば、釣り針そのものはもう用済み。危なっかしく残しておくよりは、さっさと取り外して捨ててしまう。実に潔い姿勢で、読者としてもありがたい――が、読者はそのありがたみを感じることは、おそらくないだろう。なぜなら、次の衝撃がまたすぐに襲ってくるからだ。
その衝撃は、一馬が未帆子に出した三通目のメッセージに記されている(十六頁目だ)。三通目のなかで、一馬は「二年で三通」というゆったりしたペースでメッセージを送ってきたことを述べているが、この三通目には、ゆるやかな懐旧以上の想いが込められていた。先日の検診でガンが発見されたと前置きしたうえで、一馬は、二十九年前に未帆子と結婚するはずだったこと、そして結婚式の当日に未帆子が式場に来なかったことを、メッセージに書き記す。いったい二人はどういう関係で何があったのか。
これ以上の詳述は避ける。なにしろ一五六頁だ。数々の釣り針が読者を結末へと猛スピードで引きずっていくこのスリリングな読み味を、そしてこのねじ曲がり具合を、さらにこの結末の衝撃を、是非ご自身で堪能して戴きたい。一馬と未帆子の横顔がどんな壺を生み出し、その壺がどう割れたかを、全篇がフェイスブックのメッセージで構成された本書を読み、自分の目で確かめてほしいのだ。
そのうえで、できれば読み返してみてほしい。序盤からあの薄気味悪さが漂っていることが、結末を知っているからこそ、くっきりと見えてくるだろう。慄くしかない。
さて。作中で読者をたっぷり翻弄して――愉しませて――くれた宿野かほるは、覆面作家であり、年齢も性別も経歴も不明だ。覆面の理由も不明なので、そこになにか仕掛けがあってもおかしくない、との期待さえ抱いてしまう。そんな刺激に満ちた破格のデビュー作だ。
(むらかみ・たかし 書評家)