書評
2017年9月号掲載
可能と不可能のはざまで
――諏訪哲史『岩塩の女王』
対象書籍名:『岩塩の女王』
対象著者:諏訪哲史
対象書籍ISBN:978-4-10-331382-3
諏訪哲史は分裂し、分裂させる。何を分裂させるのか。文体を、身体を、そして結局は、世界を、である。しかしそう言うと、あたかも言語=身体=世界が連動しつつ分裂という一貫した過程が進んでゆくかのようだが、実は言語と身体と世界との間にもそれぞれ断裂線が走っており、三者は決して同期していない。分裂の過程じたいが分裂しているのだ。
実際、『岩塩の女王』に収められた六篇は、互いの間で何一つ共有していない。表題作「岩塩の女王」で描かれる巡礼行は、どこか北村透谷の渾身の劇詩「蓬莱曲」を、そしてさらにその淵源にあるバイロン「マンフレッド」を思わせる。「修那羅(しょなら)」には泉鏡花「高野聖」の残響がたなびいているかのようだ。「幻聴譜」を読みながらわたしはふと、吉田一穂の切り詰められた形而上的箴言や安西冬衛の散文詩におけるイマージュの炸裂を想起する。「蝸牛邸(かぎゅうてい)」は、精緻に組み立てられマニエリスムの極致とも言うべき塚本邦雄の短篇群に似た感触を伝えてこないだろうか。
勝手な連想でいくつかの固有名詞を挙げたが、直接的な影響関係があるわけではむろんなかろう。諏訪哲史はたんに、近代日本語の文学的エクリチュールの大海に身を溶けこませ、そこできりなく分裂しまた分裂させながら、「すべての文字は、どこまでも借りものだった」(「無声抄」)という徒労感に鬱々と耐えている。そう見える。
彼にとっての至高のユートピアとはたぶん、「架空の音を文字で記した書」(「幻聴譜」)なのだろう。「もしかしたら本当にそんな本があるのでは。ここ何年か男がふけり続ける空想である」。「そこに書かれた不可能の音」を愛用のハーモニカで吹き鳴らしまぼろしの「譜」に写しとることができさえすれば、「その時この世のすべての声は消え去るであろう。/色も。文字も消え。/彼も消え去る」。そんなふうに自身を快く滅却し去ることが叶わぬ以上、この世に言語が在ることの不条理を、分裂し分裂させることによって今はとりあえず凌ぎつづけるほかはない。それを諏訪氏は本書の「あとがき」で、「非統一をもとめる純粋に生理的な衝動」とも呼んでいる。
つまり、彼を駆り立ててやまない分裂衝動の根源には、無音、無声、言語の不可能へのせつない憧憬がある。無音じたいを音として響かせ、無声じたいを声に乗せ、言語の不可能じたいを言語化しおおせることさえできれば、文体も身体も消え、分裂し分裂させる必要もなくなるからだ。ところが、諏訪哲史に取り憑いて離れないものは、表現への回路を欠いた単なる無音と無声でしかない。言語の欲動が昂じれば昂じるほど、主体は改めて裸形の無音、剥き出しの無声の側に突き戻されるだけだ。このアポリアじたいに言葉を与えようとした美しい短篇が、巻頭に置かれた「無声抄」である。
語るという行為が言語によってしか遂行しえない以上、この奇怪な「無声」の日録は、書きつけられてゆく一字一字、一句一句がその指示する意味を絶えず裏切りつつ進行していかざるをえず、行文の流れは当然、限りなく暗鬱な苦悩の色を帯びる。この「名状しがたい言語的迷妄の渦」、禁欲的な苦行ともつかぬこの不条理な試練をくぐり抜けることで、しかし、言語は可能になると諏訪氏は言う。「可能。そうだ。自分に言語は可能だ」。
「無声抄」には「言語は可能だ」と書かれ、「幻聴譜」には「不可能の音」と書かれている。『岩塩の女王』一巻をわたしは、可能と不可能、この両極の間の、意外にも極度に狭隘なはざまを揺れ動く多様な分裂の実践として読んだ。その分裂過程の顕現態の一つに、夫婦の間の微妙な感情のすれ違いなどといった凡庸なシノプシスに還元されてしまいかねない「ある平衡」のような普通の小説が含まれていること自体、薄気味が悪いと言うほかはない。
可能と不可能のはざまでマラルメ=ブランショ的な言語の臨界面をなぞり上げようと苦しい試行を重ねる諏訪哲史の文章に、にもかかわらず、鋭角的に切り立った美意識のような何かが感知されるのは、わたしの眼には不思議とも不穏とも映る。実際、「蝸牛邸」など、「渦巻」の主題を絢爛たる音色で多彩に変奏した、間然するところなき見事な短篇作品とも読めるのだ。が、当然、この美的マニエリスムの途に安穏と就くことなど彼は潔しとしないに違いない。では、こうした美意識の残滓さえ払拭し尽くすために、諏訪哲史はさらなる分裂を重ねなければならないのか。
(まつうら・ひさき 作家)