書評
2017年9月号掲載
問い直す視野
――古川真人『四時過ぎの船』
対象書籍名:『四時過ぎの船』
対象著者:古川真人
対象書籍ISBN:978-4-10-350742-0
頭から離れない思念や不安、問いがある。容易に答えは出ない。出ないからこそいつまでも頭にあり続け、離れていてもふとしたときに顔を出す。
それがある時変容する。問いが消えたのでも解決したのでもなく、ただ局面が変わっている。問いが、問い直され新たな問いになったのだ。そのきっかけは、おそらく必ず、何かに誰かに出会ったことだ。
本作中では二つの時間の流れが交互に描かれる。一つは九州の島に独居する老婆・佐恵子の時間。佐恵子は娘から、この夏は息子の浩(佐恵子の孫)の目の手術のため自分と浩は帰省できない、浩の弟・稔だけを島へ行かせると電話を受ける。認知症が始まっている佐恵子はノートに「今日ミノル、四時過ぎの船で着く」と書き留め、波止場へと向かう。
もう一つの時間では、稔は三十歳近くになっている。無職の彼は佐恵子の死後空き家となった家を片づける母を手伝うため、全盲となった浩とともに島にきている。稔は祖母のノートに自分の名を含むメモを見つけるが、「四時過ぎの船で着く」というのがいつのなんのことだったか思い出せない。
二つの時間の中で、佐恵子は道を急ぎながら亡夫とのこと、子供ができず妹夫婦から養子をもらったこと、孫たちが幼かったころのことなどを思い出し、忘れる。稔はノートのことを考えるうち、認知症が進んだ祖母が自分を他人のように扱ったことや、祖母が度々口にしていた「やぜらしか」という、おそらく煩わしいとか鬱陶しいとかいう意味の方言を思い出す。祖母の「やぜらしか」が「おれはこれからどうなっていくんやろう?」という、未来への、漠然というよりもう少し生々しい不安を問う言葉へと繋がっていく。
本作では、多くの行き違いが描かれる。島で偶然再会した稔と幼馴染の卓也とのコミュニケーションは噛み合わない。記憶を失っていく認知症もまた、過去の自分といまの自分との行き違いと言える。そして佐恵子は四時過ぎの船の到着に間に合わなかった。稔は一人で祖母の家へ向かったが、その道が祖母が波止場へ向かっていた道と違っていたため二人は会えなかった。一足先に家に着いていた稔を見て、佐恵子は家に知らない男がいると驚き騒いだ......そのことを覚えていたのは、白杖をつき稔と腕を組んで歩く浩だった。兄の言葉で稔もようやく思い出す。「すると、いまになってそれを思い出したってことは、いまになって、ようやく、すれちがったったい、おれは......やっとすれちがったっていうことは、それなら、これからだ。これからどうやって生きていくのか、やっと考えんといかんわけだ。」
「出会う」というのは、実際に顔を合わせることだけでなく、記憶の中で会うことも含む。そうだあの時はと思い出し、思い至って心が通じる、時間を超えて行き違った二人の距離が埋まる。記憶の中で祖母と出会ったことで稔の、逃れられない「おれはこれから......」という問いが変容する。それは相変わらずやぜらしかことではあるが、少し前までいた思念の袋小路とは違う、少し開けた場所にいま稔は立っている。
稔と浩は島で二度、インド人の男児と出会う。稔らに笑いかける彼は近々インドへ帰るらしい。彼と稔らはおそらく二度と物理的には会わない。しかし彼はいずれ、笑顔を交わした稔のことを、目を閉じたまま歩く浩のことを思い出すかもしれない。その時、稔が祖母と出会い心中の問いが変わったように、彼の中でなにかが変わるかもしれない。
いまここではないけれど、いつかどこかで、記憶の中で、現実で、誰もが誰かと出会い得るということをこそ作者は書いている。そこにもここにも無数にある可能性が世界の広さを示す。佐恵子とノートを介し浩を介し記憶を介し出会うことで、稔はその無限さに手をかけようとしている。佐恵子は記憶をどんどん手放していったが、そのいくつかは誰かの記憶に残り出会い得た。出会い得ればどうしたって何かが自分が変わっていく。また読者は、作中の時間で噛み合わなかった稔と卓也の、物理的な意味以上の再会、出会いも予感する、させられる。稔が死んだ祖母と出会ったように。作者は関係が取り結ばれていないものとものの間にあるのが断絶ではないことを我々に示す。老人の描き方、風景、言葉や筆致の卓抜さなど作者の美点は多々ある、が、その最も優れたものは輪郭の定まらない世界を見渡し光を灯すこの視野である。
(おやまだ・ひろこ 作家)